党首討論の「歴史的使命」 与野党で投げ出す愚かさ - 毎日新聞(2018年6月28日)

https://mainichi.jp/articles/20180628/ddm/005/070/093000c
http://archive.today/2018.06.28-002844/https://mainichi.jp/articles/20180628/ddm/005/070/093000c

どんな制度でも尊重する精神がなければ廃れる。きのうの党首討論はそれを実証した。
導入から20年近くたつ党首討論について安倍晋三首相が「歴史的使命が終わってしまった」と発言した。前回5月の党首討論後に立憲民主党枝野幸男代表が「今の党首討論制度はほとんど歴史的意味は終えた」と言ったのを逆手に取ったものだ。
首相は前回、森友学園加計学園の問題などで質問にまともに答えず、聞かれていないことを長々と話して時間をやり過ごす答弁姿勢に終始した。その腹いせに枝野氏はきのう、一方的に安倍政権の問題点を指摘する長広舌を振るい、首相に反論時間を与えなかった。
売り言葉に買い言葉かもしれないが、党首同士の議論がうまくいかないのを制度のせいにするのは見苦しい。そもそも党首討論の使命は本当に終わったのだろうか。
政権交代可能な2大政党制の英国議会をモデルに党首討論が正式導入されたのは2000年だ。衆院選挙制度に小選挙区制を取り入れた政治改革の一環として、政党間の政策論争を活性化させる狙いがあった。
しかし、第2次安倍政権以降は野党の「多弱化」によって2大政党制が遠のき、開催回数が激減するなど制度の形骸化が指摘されてきた。
だからといって、国家の重要課題について与野党が政策を競い、国民と認識を共有していくという党首討論の意義が失われたわけではない。
党首討論を開くため衆参両院に設けられたのが「国家基本政策委員会」だ。その名称の意味する原点に与野党双方が立ち返るべきだ。
45分に固定された討論時間は政権奪取を目指す野党第1党の存在を想定したものだが、討論に立つ野党党首の人数が増えたのなら、それに合わせて運用を工夫すればいい。制度を生かす努力をしないで「使命を終えた」と開き直るのは、言論の府の役割を否定するのに等しい。
その結果、国民が目の当たりにしているのは与野党の党首間で実のある論争ができない、すさんだ国会の姿だ。自己宣伝を繰り返したり、相手を攻撃したりするばかりでは討論は成り立たない。歴史的使命が終わったのではなく、当事者の理解不足が極まっただけに過ぎない。