鎮魂を祈り 平和を誓う - 東京新聞(2018年6月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201806/CK2018062302000247.html
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家族の名前をそっと指でなぞり、鎮魂の祈りをささげる。戦没者名が刻まれた「平和の礎(いしじ)」が立つ沖縄戦最後の激戦地、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園。梅雨が明けた23日は、早朝から夏の強い日差しが照り付ける中、生き残った人々が73年前の惨禍を思い起こしつつ、平和への誓いを新たにした。
「防衛隊で召集された兄が亡くなった場所は今も分かりません。戦争は二度とあってはいけない」。父親と兄2人の刻銘を前に手を合わせていた那覇市の比嘉永喜(ひがえいき)さん(82)は、声を絞り出すように話した。
沖縄戦末期、激しい砲撃が降り注ぐ本島南部を、母親と一緒に逃げ回った。「道に散乱する遺体を乗り越えながら歩いた」。サトウキビをかじり空腹をしのぐ日々だった。礎の刻銘は、熾烈(しれつ)な地上戦で二度と会えなくなった家族の生きた証しとなっている。
礎には、戦争のために県外で亡くなった県出身者の名前も刻まれている。那覇市の金城美代子さん(79)は「お水持ってきましたよ」と、移住先のサイパンで命を落とした妹2人に呼び掛けていた。喉が渇かないようにと毎年水を供えている。
いとこの名前を何度もなぞり涙を拭っていた糸満市の渡口(とぐち)百合子さん(83)は、沖縄に集中する米軍基地は「ない方がいい」と訴えた。当時、母親やきょうだいら約10人で同県・渡名喜(となき)島の狭い自然壕(ごう)(ガマ)に身を寄せ合った。米軍の艦砲射撃が響くたび、体が震えた。「戦争は憎らしい」と悔しさをにじませた。
平和祈念公園から西に約4キロ離れた身元不明犠牲者らの遺骨を納める糸満市の「魂魄(こんぱく)の塔」。行方が分からない家族の魂や遺骨はここにあると信じ、多くの人が訪れ、線香や酒を供えた。南城市の座間味(ざまみ)良助さん(84)は、旧日本陸軍と行動を共にした看護師の姉が終戦後も帰らなかった。家の墓には、遺骨の代わりに石を納めた。「魂だけは父さんと母さんのところに行ってね」と塔に向け語り掛けた。