一族30人犠牲 無念なお 沖縄慰霊の日 - 東京新聞(2018年6月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201806/CK2018062302000248.html
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地獄の地上戦をくぐり抜けた島の人々は、命を落とした肉親や友へ静かに祈りをささげた。憤り、悲しみ、無念、自責…。夏の日差しの下、石碑に刻まれた氏名を指でなぞれば、さまざまな思いが胸に去来する。忘れてはならぬ「六月二十三日」。戦後七十三年、重い基地負担を巡る国との隔絶はなお続く。
終戦翌年の夏。一族約三十人の一周忌法要を自宅で母らと執り行った。ちゃぶ台に並べきれず床に置いた位牌(いはい)やお供え物。地上戦で肉親らを相次ぎ失った沖縄県糸満市の大城藤六(とうろく)さん(87)は、この日の光景を決して忘れない。「あの戦は何だったのか。国家は同じ過ちを繰り返してはならない」。強い憤りと無念に、さいなまれ続けている。
鉄血勤皇隊に学徒動員されて犠牲となった先輩を悼むため二十三日午前、地元の慰霊塔を訪れた。「平和を守る。後世に遺志を引き継ぐ」。そうつぶやき、目を閉じた。
太平洋戦争のさなか、国民学校に通う軍国少年として日本の勝利を疑わなかった。軍歌を叫び、二列縦隊で集団登校。昭和天皇の写真を納めた奉安殿(ほうあんでん)の前で最敬礼した。
敗戦の足音が迫った一九四五年三月下旬。地元の沖縄本島南部に、艦砲射撃の嵐が襲い掛かる。青い空は無数の米軍機に埋め尽くされ、間もなく地上戦が始まった。
集落の自然壕(ごう)「アバタガマ」に、一族と近隣住民らで避難した。恐怖で体を震わせ、数百人が身を寄せ合う。やがて、懸命にサトウキビ畑で働き家族を養った父の、戦死の知らせが届いた。
やって来た旧日本軍の兵士にガマを追い出され、一族は沖縄独特の大きな石室がある墓の中へ。そこに砲弾が直撃し、十数人が即死した。自身も壊れた岩の下敷きとなったが、母に助け出されて九死に一生を得る。
転々と逃げ惑う日々。五歳の妹は砲弾の破片で破傷風にかかり、一歳の妹も黄リン弾で喉を焼かれ、いずれも世を去った。集落を囲い込み、投降を呼び掛ける米兵。「前線を突破して北部に行く」。行動を共にした親族の一人は、流れ弾で命を落とす。排水溝にも身を隠したが六月二十四日、米軍に保護された。
家族八人の中で生き残ったのは自身と母、妹二人。祖母も米軍収容所でマラリアのため亡くなり、一族は太平洋戦争を通じて約三十人が犠牲となった。
怒りと空腹にあらがいながら米軍兵舎の清掃員などをして働き、中学教師となり平和教育に力を注いだ。「戦没者の上に物を建てるわけにはいかない」と、遺骨を拾い集める取り組みを七十年以上続けている。
「戦争を始めるのも、止めることができるのも人間だ」。十年ほど前から、体験と教訓を地元の子に語る。犠牲になった身近な人々の“生きた証し”を伝え残すために。