(筆洗)石牟礼道子さんが亡くなった - 東京新聞(2018年2月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018021102000128.html
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「高漂浪き」と書いて「たかされき」と読む。熊本県水俣のことばだそうだ。何かの声や魂にいざなわれ、さまよい歩く。そんな意味らしい。
その作家はその地元の言葉についてこんな説明をしている。「村をいつ抜け出したか、月夜の晩に舟を漕(こ)ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰や樹のかげに出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」(『苦海浄土』第三部・「天の魚」)
水俣病患者の苦しみを描いた『苦海浄土』などで知られる作家の石牟礼道子さんが亡くなった。九十歳。その作品は水俣病への世間の注目を集めるきっかけとなった。
「高漂浪き」の人だったのだろう。米本浩二さんによる評伝の中に、こんな話があった。一九五八年、水俣病に関する熊本大学の報告書を読んで、まるでその苦しさが自分に伝わったかのように、しばらく寝込んでしまったそうだ。
人間の痛み、悲しみ、怒り。そういうしゃがれた声や叫びのする場所へと自然とさまよい歩きだし、声に触れ、痛みをわがもののように感じる。ときに死者の声さえ聞こえる。その心こそ作品にあふれる迫力と、不思議な透明感の秘密なのか。
「義によって助太刀いたす」。『苦海浄土』は弱い立場の人を助けたい一心で書いた。「高漂浪き」の義の人は今、どこをさまよっているんだろう。たぶん、人のすすり泣く声がするところである。