(余録)「高漂浪き」とは何か… - 毎日新聞(2018年2月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180211/ddm/001/070/158000c
http://archive.today/2018.02.11-020751/https://mainichi.jp/articles/20180211/ddm/001/070/158000c

「高漂浪(たかされ)き」とは何か。「狐(きつね)がついたり、木の芽どきになると脳にうちあがるものたちが、月夜の晩に舟を漕ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰に出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」
「苦海(くがい)浄(じょう)土(ど)」の一節という。魂が身からさまよい出て諸霊と交わって戻らないさまをいう方言らしい。著者の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんは自分をこの高漂浪きだと言っていた。水俣病の患者らの話に引き寄せられて始まったその魂の漂(ひょう)泊(はく)だった。
「こやつぁ、ものいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす」。胎児性水俣病で口のきけぬ少年の祖父はそう語っていた。水俣病で亡くなった人、苦しみを語れぬ人との魂の交感を言葉に紡いできた石牟礼さんの旅である。
海と山のおりなす自然と暮らしの中で狐や舟霊、人から抜けた魂が行き交ったかつての水俣だ。その小宇宙を人間ともども破壊した近代産業の罪科を、過去の世界からさまよい出た魂のまなざしにより描き出した「苦海浄土」だった。
ものが言えないからこそ魂は深くなる。惨苦を生きる人にこそ聖なるものが宿る。深い悲しみから生まれる美しさがある−−「物が豊かになれば幸せになる」という近代文明の傲慢(ごうまん)と恐ろしさを胸に染み入らせた石牟礼さんの文業だ。
東日本大震災この方その文学が再認識されたのも、富や力の左右する世界しか見えぬ昨今の精神の貧血状態からの揺り戻しではないか。石牟礼さんの旅立って行ったあの世が古き良き水俣に似ていればいい。