http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20171220000083
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戦後すぐに京都帝国大総長に就任した鳥養利三郎が残した「鳥養資料」(草稿やメモなど約400点)を京都大大学文書館(京都市左京区)が所蔵している。その中に鳥養が戦時研究員の時代を振り返っている記述があった。
戦争協力について多くの科学者が戦後、口をつぐみ沈黙したが、鳥養は違う。京大では戦時中、各学部から出された研究概要報告の中から航空など軍事研究に添う課題を選び、「研究担当教授を指名し、総長が議長となって、毎月1回報告会を開いていた」と組織的に軍部に協力していた実態を振り返っている。
摩擦電気で雲を生成し爆発させる兵器「人工雷雲」の研究に鳥養研究室は取り組んだ。不成功だったが、副産物として風船爆弾の基礎を作り、「アメリカをだいぶ驚かした」と書き残している。
鳥養は終戦時に「文部省からは戦時中の書類と研究報告を焼き捨てろ、と言ってくる」と記している。文書廃棄を京大が組織的に進めようとしたことは、ノーベル物理学賞受賞者湯川秀樹の自筆メモとも符合する。だが、鳥養は大学や国の意向に反して平常通りに研究を続けることを主張し、「研究資料は焼き捨てさせなかった」。理事長を務めた航空軸受研究所は進駐軍に接収される前に、「航空医学」のタイトルを「環境医学」と書き直して資料の保全を図ったという。
「学問の自由と政治的中立が大切也」(鳥養資料のメモより)との信念を持っていた鳥養。だが、守ったはずの戦時中の軍事研究資料を京大や防衛省で探しても見つからない。
鳥養資料に気になるメモがあった。戦後のものらしく、「戦争は人の心の中に生まれるものや。人の心の中に平和のとりでを築かなければならぬ」と走り書きがされていた。
軍事研究は大学だけではなかった。旧陸軍「研究嘱託名簿」には朝日新聞報道科学研究所の「秘密無線電送機ノ研究」、日本放送協会(NHK)技術研究所「軍用電視及暗視装置ノ研究」も挙げられている。
防衛装備庁が2015年にスタートさせた研究公募「安全保障技術研究推進制度」では、デュアルユース(防衛と民生の両用)をうたう故に「研究成果の公表を制限することはない」と明示した。だが、要項をみると、公表する際に同庁への通知は必要で、「特段の理由がある場合を除き、公表する」とする。特段の理由とは何なのか、明確にはなっていない。表だって資料が残らないという、軍事研究が経てきた歴史は繰り返さないのか。
一方で、大学では教員たちの研究資金は十分ではない。国が国立大学に支給する研究費を含む運営費交付金の総額は10年前から1千億円以上減少した。京大職員組合の白岩立彦・中央執行委員長(農学研究科教授)は「組合としてまだ議論していないが、京大らしく軍学共同に反対してほしいとの声は多い」という。
だが、「教員にとって外部資金の獲得は特に重要で、なくてはやっていけないという声は多い。民間で役立つ研究と言われたら外部資金の一つとして魅力を感じてしまう教員はいるだろう」と話す。
科学者らでつくる日本学術会議の安全保障と学術検討委員会は今年3月、審議の結果を次のようにまとめている。
「軍事的安全保障研究については、研究の過程でも研究後の成果に関しても、秘密性の保持が高度に要求されがちであり、アメリカの研究状況に照らしても、自由な研究環境の維持に懸念がある」「軍事的安全保障予算が拡大することで、他の学術研究を財政的に圧迫し、ひいては基礎研究等の健全な発展を妨げるおそれがある」