分かれ道に直面する「軍事研究の全面解禁」(杉田敦さん|WEBRONZA) - 朝日新聞社(2017年4月17日)

http://webronza.asahi.com/science/articles/2017040700008.html
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日本学術会議が、学術界での軍事研究のあり方について「声明」を発表した。会議では1950年と67年にも声明を出して、「戦争を目的とする研究は行わない」と宣言している。
今回の声明は、軍事研究が機密性などの面で学問の健全な発展を阻害するという、学問の自由(憲法23条)に関する懸念を前面に打ち出した。大学に対する防衛省の「安全保障技術研究推進制度」も、この観点で「問題が多い」とした。
一方、9条に関する記述では「平和」という言葉を使わなかった。自衛や戦争の定義についての議論は見送り、成果が軍事目的に転用される懸念から「資金の出所等に関する慎重な判断を求める」といった表現にとどめた。
ただ、軍事的とみなされうる研究の審査など、具体的な対応を大学に求めたのは、過去の声明にはない大きな特徴といえる。議論をまとめた「安全保障と学術に関する検討委員会」の杉田敦委員長へのインタビュー(朝日新聞4月13日、朝刊オピニオン面)の詳細版を掲載する。(構成:朝日新聞科学医療部 竹石涼子、嘉幡久敬)

――今回の声明は、大学側のあり方まで踏み込みました。

大学などの研究機関での軍事的手段による国家の安全保障に関わる研究が、学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあることを示し、大学や学会に対応を求めた点が大きなポイントです。
重大な問題であるにもかかわらず、軍事研究は行わないとした1950年と67年の声明から半世紀。日本学術会議は、議論を継続せず、考え方を示してこなかったという反省があります。今回の声明は、過去の声明を『継承』しました。
日本学術会議が 1949 年に創設され、1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対に これを行わない」旨の声明を、また 1967 年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研 究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び 同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、 われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段に よる国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあ ることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。(「軍事的安全保障研究に関する声明」から)

――過去の声明を「堅持」するとすべきだとの声もありました。

堅持とは、そのままにするということ。でも、過去の声明のもとで事態はかなり進行しています。2015年度に防衛装備庁が大学などに研究を委託する『安全保障技術研究推進制度』を始めたことが、今回の議論のきっかけになりました。いま、米軍からの大学や学会などへの資金援助は8億円を超えている状況です。
今回の声明は、学術と軍事の間の緊張関係や大学が負う責任を明確にして、大学や学会などに対応を求めることまで踏み込みました。過去の声明を発展的に継承すると考え、継承という言葉を使いました。

――学術と軍事の緊張関係とはなんでしょうか。

何よりも学問の自由が脅かされます。学問の発展にとって、自主性、自律性、そして研究成果の公開性が大事です。一般に軍事研究では、それらが保証されません。委員会でも学問の自由が学術の健全な発展につながることに異論はありませんでした。
日本の場合には特に軍部が台頭した1930年代を中心に、政府の側が学術の内容に介入して、特定の学説を押しつけられたり、別の学説は排撃されたりしました。天皇機関説事件や矢内原事件があり、具体的な抑圧の経験があるのです。憲法学などの学問が弾圧される一方で、戦争遂行のために科学者が動員され、核兵器につながる研究さえしていたわけです。その反省が日本学術会議の原点です。

――「学問の自由」は、なぜ大切なのですか。

学問の自由は、研究者が個人的な判断だけで何でもやっていいことと誤解されがちですが、それは憲法学などの知見から言っても間違いです。学問が政府などから過度に介入されてはならないという意味であり、国内外に開かれた教育・研究環境を維持する責任が大学にはあります。
大学を聖域化するな、との意見もありますが、大学の研究者は自分で研究テーマを決められる点で、企業などとは立場が違います。いかに民主的な政治権力であっても、社会のすべてをコントロールすることは、長期的にみて社会のためになりません。大学という自律性を持った空間は残しておくべきです。

――企業研究者も対象にしないと、共同研究などを通して大学の研究がゆがめられる危険性があるのでは。

委員会のヒアリングでも、何人かの専門家から指摘されました。1950年や67年の時点では、企業に基盤を置く研究者は多くありませんでした。また、いわゆる産学共同も、ある時期までは学内で批判の対象でした。
しかしその後、産学共同それ自体を批判する議論は、かなり縮小しています。すると結局、「軍産」と「産学」がつながれば、間接的に大学と軍事がつながるのではないか、という懸念です。この問題は、委員会審議でも、ずっと意識されています。

――明確な軍事研究は認めないが、自衛のための研究なら許されるとの意見もありますね。

この声明はそうした立場をとっていません。1928年の不戦条約で戦争が違法化されて以来、国際法上ほとんどの戦争が、『自衛権の行使』などとされ、戦争と呼ばれなくなりました。自衛という概念が非常に拡張され、戦争という概念が縮小している中で、自衛目的ならいいとか、狭い意味での戦争目的でなければいい、とかいう安易な基準では、軍事研究の全面解禁につながります。

――むしろ現代においては、明確な軍事目的と呼べる技術はほとんどないのでは?

まさにデュアルユースという問題です。多くの技術は、両方に使えます。デュアルユースは最近の新しい傾向のように言う人がいますが、昔から存在する問題でした。およそ技術というものには、デュアルユースの側面があるのです。
だ、最近までは、軍事的技術のほうが先行しており、それを民間に転用するというのが主流でした。ところがそれが逆転して、民生的な技術のほうが高度化している。そこで政府も、軍事的な技術開発に対して研究者に協力してもらうために、「軍事研究だけではありません、民生にも使えます」と説得しているわけです。
今回の防衛装備庁の制度も、民生技術にも使えることを期待する表現にしています。そもそも軍事にしか使えないような研究分野というものは、かなり限定されます。しかし、声明は、資金の出所を検討したうえで、目的・方法・応用の妥当性の観点から、その研究が適切かを技術的、倫理的に審査することを求めているわけです。

――憲法9条に照らした議論に踏み込みませんでしたね。

たとえば集団的自衛権が認められるか認められないかという問題も、国論を二分し、個々人でも判断が分かれています。9条があって自衛隊があって日米安保がある、ということの帰結で、日本学術会議が学術的に特定の結論を出すことはできません。
自衛のためならいいじゃないか、自衛隊は認められているではないか、という議論はずっと続いてきました。でも、それではなんの歯止めにもなりません。自衛という概念は肥大化しています。どんな技術研究でも、「侵略が目的である」という言う人はいませんから、自衛目的を掲げているというだけでは、なんのフィルタリングにもならないのです。
だから自衛研究の是非を議論したところで、何もやったことにならない。9条の論議を避けたというより、やっても意味がないということなのです。
防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発に つなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の 職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学 術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研 究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。(「軍事的安全保障研究に関する声明」から)

――声明では、防衛装備庁の制度について「問題がある」と明記しました。なぜでしょうか。

防衛装備庁の制度の目的は、防衛技術の開発につながる基礎研究と明示されています。研究成果は公開できるし、介入はしないと言っていますが、防衛装備庁の職員が研究の進捗管理をし、助言をするのはかなり強い関与になる。学問の自由から見て著しく問題があります。軍事的な目的が主眼でなければ、明確な軍事的な研究ではないという意見もありますが、この声明の考え方とは異なります。

――軍事研究には、ほかに、どんな問題がありますか。

国防や国民の安全に関わるような問題である、と言われると、断るとか、途中から協力をやめるのが難しい。企業に対して、自分の研究をそういう用途に使ってもらっては困る、と言えても、防衛問題となると、断ることは事実上、非常に難しいでしょう。
そこで、今回はあえて、踏み込まなかった。これは、学問の自由の問題として議論しているゆえの難しさなのです。こちらとして、軍事研究が学問の自由に及ぼすリスクや影響についての基本的な考え方を示したうえで、各大学や学会などの対応に期待します、というスタンスでないと、そもそも学術会議自体が信頼を失う恐れもあります。
 理解して欲しいのは、学術会議はこれまでも学問の自由や学術の自由と直接関係のない論点については、特定の制度に対して「これは、やめるべきだ」「こういう制度にすべきだ」ということも、きちんと提言しているということです。たとえば高レベル放射性廃棄物の問題でも、地層処分はせずに地表で厳重に保管すべきだと提言しました。埋めてしまうとうまくコントロールできない可能性があることを、警告しています。またゲノム編集の問題でも、そもそもこうした研究をやっていいのかどうかについて、かなり踏み込んでいます。こうした個別の問題と、今回のような、学術コミュニティ全体のあり方にかかわる問題とは性格が違います。

――声明をガラス細工のように精緻な表現だ、と評価する声もあれば、玉虫色との声もあります。自治の名のもとに、軍事研究に踏み切る大学も出てくるかもしれません。

声明をよく読めば、できないと受け取るのが自然ではないでしょうか。防衛装備庁の制度は、政府による介入が著しく、問題が多い、としているわけです。極めて問題が多いと指摘された制度を利用するなら、なぜ可能なのか、開かれた研究や教育環境を維持できると判断した根拠は何か。利用する大学や研究機関が説明責任を負います。そもそも、大学の自治は、政府との緊張関係のうえに成り立つことを大学は意識すべきです。

――防衛装備庁の問題ですか。

違います。防衛装備庁の問題に限られません。研究者の意図を離れて攻撃的な目的に使われる懸念も指摘し、研究に入る前に資金の出どころについて、まずは慎重な判断も求めています。問題が多い機関の資金をもらっていいのかどうか。米軍はだめと明示的には書いていなくても、米軍の性格を考えれば、攻撃的に転用される懸念は、自衛隊以上に大きいとも考えられる。さまざまな資金について、こうした観点から各大学が判断することになります。
今回の声明は、研究目的なども厳しく審査するよう求めています。資金の出どころだけでは割り切れないことは委員会の審議でも明らかになりました。軍事的な機関以外を経由する形で事実上の軍事研究が進むこともありえます。だからこそ、声明は個別の機関や制度の是非よりも、審査制度の整備を求めているのです。自分たちの研究がどのように使われるか、大学や学会で継続的に議論することが大事です。

――技術の使われ方の議論には想像力も必要ですね

その通りです。若い人は抵抗感が薄いという報道もあり、危惧しています。研究の適切性は、これまで研究不正や研究費の不正使用ばかりが注目されてきましたが、科学技術と倫理との関係といった問題について、対話を広げていく必要があるでしょう。
また、教育機関には、国内外に開かれた自由な環境であることも求められます。留学生や外国人研究者との共同研究に制約が生じて、大学では困ることもありえます。安全保障に関わる研究が浸透していくと、特定の国の留学生はあまり受け入れなくなる可能性もある。十分に考えないと、外部から批判されるでしょう。

――軍事と学術の関係は、どれだけ危機的な状況でしょうか。

研究費不足、ポスト不足などの厳しい状況の中で、研究を続けるために研究資金を選べないという声があります。防衛など、特定の目的に役に立つとされる研究だけに資金投入が続くと、学術全体の健全な発展に悪影響が及び、ゆがみが生じます。そういう危険性が見えてきた。研究者の自主性を生かす民生資金が非常に大事なのです。
極端な例とはいえ、米国のように研究費全体の半分ぐらいが軍事的色彩を持つようになると、軍事的な研究資金をあてにしないと研究ができなくなり、研究全体に関する軍の発言力が強まります。それでいいのか。今が分かれ道なのです。