衆院選 きょう投票 棄権なんてしてられない - 朝日新聞(2017年10月22日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13191866.html
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さて、誰に、どんな思いを託そうか。思案の雨の朝である。
訳のわからぬ理屈で首相が衆院を解散したと思ったら、あれよあれよという間に野党第1党も自ら散り散りになった。打算と駆け引きの果て、置き去りにされたのは、理念と丁寧な説明、そして国民である。
一連の騒ぎにはほとほと愛想が尽きた。投票に行く気になれない。そんな声もしきりだ。
だが今回の一票は、時代を画する重みを持つ。

■ヒラリー氏の嘆き
3年前の衆院選投票率は52・66%と戦後最低を記録した。
多くの人が投票し、さまざまな意思が反映された代表者を通じて、国を運営してゆく。それが近代民主主義の姿だ。ところが大勢の人がそこに集うほど、一人ひとりの声は相対的に小さくなり、政治に参加している実感や責任感は薄まる。
制度が抱えるジレンマ、と言っていい。しかし「しょせん選挙なんて」というニヒリズムが広がれば、堅固に見えた社会の土台も崩れる。
昨年の米大統領選。世界中がまさかと思っていたトランプ氏が当選し、ヒラリー・クリントン氏は一敗地にまみれた。
投票率は50%台だった。過去に比べ特に低かったわけではないが、選挙が終わった後に、多くの市民から「実は投票に行かなかった」と謝られたと、ヒラリー氏が近著で明かしている。「市民としての責任を最悪の時に放棄したのね」という言葉が口をつきそうになったという。
街の灯が一つ消えても、目に映る風景はほとんど変わらない。やがて「なんだか暗いね」と皆が気づいた時には、もう元に戻れない地点に来ているのかもしれない。
棄権という選択は、将来を白紙委任することに他ならない。

■お客様か主権者か
いつの世も、候補者は耳に聞こえの良いことしか語ろうとしない。ならば有権者の側が、その甘い言葉の先を考えたい。
朝日新聞の社説は、選挙の最大の争点は安倍1強政治の評価だと主張してきた。ためしに、首相の政権運営が評価されて、あと4年、21年までこの政治が続く姿を想像してみよう。
このころから、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になっていく。社会保障の経費をまかない、あわせて財政の健全化を進めるという困難な課題に、「アベノミクスの加速」は有効な答えを出せているだろうか。
政権は原発を基幹電源と位置づけ、再稼働を進める。たまり続ける「核のごみ」を処理し、未来に負担をかけない道筋が、4年後には描けているか。
そして憲法。例によって街頭演説などでほとんど触れない首相だが、今回、自民党は「自衛隊の明記」をはじめ、具体的な改憲項目を公約に盛りこんだ。選挙が終われば、国民との約束を果たすとして改憲への動きを加速させるだろう。有権者にその覚悟と準備はあるか。
自分が思い描く望ましい未来像と照らし合わせてほしい。
留意したいのは、消費者の気分で政治を見るわけにはいかないということだ。
政党は、自動販売機に並ぶお茶やジュースではない。「お客様」なら好みのものがなければ買わなければいい。だが「主権者」はそれでは済まない。選挙の先にたち現れる政治は、日々の生活を規定し、支配する。無関係や没交渉はあり得ない。
ならば、品ぞろえに不満があっても、その中からましな一つを選ぶ。その選んだ先と対話を重ね、次はこういう政策が欲しいと働きかけ、国を動かす。そうやってはじめて、「主権者」たり得るのではないか。
自販機と違って、すぐには渇きを癒やせないかもしれない。期待していたとおりの味でないこともあるはずだ。それでも選ぶことをしなければ、民主主義は始まらない。

■物差しを決める
こう言うと、選ぶことの重さにたじろぐ人がいるだろう。「そんな必要はない。肩の力を抜いて」と、著書「世論」などで知られる米国の評論家リップマンなら助言するに違いない。
仕事や家事で忙しいのに、複雑な政治課題への見聞を深め、合理的な判断を下すなんて教科書だけの世界だ。有権者にできるのは、政治家が世の中のルールと己の欲望のどちらに従っているかを判断することだ――。そんな趣旨の文章を、90年以上前に書き残している。
彼に励まされて、もう一度、候補者の考えを比べてみよう。
自分が最も大切だと考える政策や、政治家に求める姿勢を一つ決め、その物差しで投票先を決めてもいい。それでも考えあぐねるなら、今晩どの党首が笑顔でいると「いいね」と感じるか。それも選び方だ。小選挙区比例区で投票先を使い分けても、一向に構わない。
関心が高いから投票へ行く。投票へ行くから関心が高まる。どちらも真理だ。さあ一歩を。