終戦直前 空襲10カ所 米機1000機、犠牲2300人 - 毎日新聞(2017年8月13日)

https://mainichi.jp/articles/20170814/k00/00m/040/099000c
http://archive.is/2017.08.13-204124/https://mainichi.jp/articles/20170814/k00/00m/040/099000c


終戦前日の1945年8月14日から翌日にかけ、全国10カ所以上で空襲があった。米軍の空襲は執拗(しつよう)で、2300人以上が犠牲になったとみられる。
米軍資料から空襲の実態を調べる市民団体「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」によると、14日は米軍機約1000機が出撃した。日本は45年8月10日、降伏を求めるポツダム宣言を条件付きで受諾する方針を連合国側に伝え、米軍は空襲を一部停止した。しかし、受諾条件を巡って日本政府が揺れていると判断した米軍は14日の空襲を実行した。
米軍の作戦任務報告書では、14日は光海軍工廠(こうしょう)(山口)など6地点が主な空襲目標とされた。京都・舞鶴の港湾などに機雷を敷設し、広島や長崎に原爆を投下した部隊は長崎原爆と同形で通常爆薬の模擬原爆を愛知に落とした。神奈川・小田原では、15日未明の空襲で12人が死亡。米軍機が帰還途中に爆弾を投下したとみられる。


山口県光市で難逃れた阪大名誉教授・中田篤男さん「科学の使い方誤るな」
大阪大名誉教授の中田篤男さん(87)=大阪府豊中市=は終戦前日、学徒動員された山口県光市の軍需工場が米軍の空襲に遭い、大勢の仲間を失った。紙一重のところで難を逃れた中田さんは戦後、分子生物学者となり、狙った遺伝子を改変する「ゲノム編集」の基礎となる発見をした。自身の戦争体験を思い返すとき、科学界への戒めの言葉も浮かぶ。「核兵器の開発に科学技術が利用されたように、使い方次第では恐ろしいことが起きる」
中田さんは山口県の旧制柳井中(現・県立柳井高)3年生だった1944年夏、「光海軍工廠(こうしょう)」に動員された。
配属先は高射砲弾の製造工程。毎日12時間、重さ30キロはあろうかという鉄塊を炉にくべて熱し、汗だくになって火薬を詰める穴を開けた。ある日、作業中に転倒し左手が鉄塊の下敷きになった。薬指は今もうまく曲がらない。
45年8月14日。普段通りに早朝に出勤したが、仲間が見当たらない。前日、リーダー格の先輩が現場監督に暴力を振るわれ、職場放棄をしていた。中田さんも同調して近くの寮に帰った。そんな時、米軍機が襲ってきた。B29爆撃機が次々と飛来して爆弾を投下し、工場は瞬く間に炎に包まれた。
寮の職員の指示で付近の山へ逃げ込んだ。翌15日、終戦の日。廃虚と化した工場には首が真後ろを向いて絶命した女性や、頭部が半分吹き飛んだ同級生の遺体が残されていた。
光市教委の資料によると、工場では学徒動員の生徒136人を含む738人が命を落とした。普段通り仕事をしていたら、自分も死んでいたかもしれない。戦争が終わったことを知ったとき「敗戦は確定的だった。なぜ攻撃したのか」と、悔しさがこみ上げた。
戦後は現在の広島大で学び、分子生物学の道に進んだ。校舎の壁には原爆の被爆者の血痕が残っていた。学生のころに知り合った妻和子さん(85)も被爆者。核兵器への強い抵抗感が生まれた。
約30年前、大腸菌の遺伝子の中にある奇妙な塩基配列の繰り返しを発見した。これが、「ゲノム編集」の技術に発展し、遺伝子治療や農作物の生産性向上などにつながる研究分野として、世界中から注目されている。中田さんは願う。「ゲノム編集は使い方を誤らないでほしい。人を救う使い方をしてほしいんです」【大久保昂】