二つの地獄 若い世代に伝えたい 横浜大空襲から72年:神奈川 - 東京新聞(2017年5月28日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201705/CK2017052802000133.html
http://archive.is/2017.05.28-011544/http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201705/CK2017052802000133.html

一九四五(昭和二十)年五月二十九日の横浜大空襲から、間もなく七十二年。「空襲は暮らしの場を地獄にした。戦争の実態を知らない若い世代に、そんな記憶を伝えたい」。当時、横浜市南区に住んでいた打木松吾(うちきしょうご)さん(85)=横須賀市長井=は、二十九日午後二時から、横浜市中区の横浜にぎわい座で開かれる「5・29横浜大空襲祈念のつどい」で、体験を語る。 (梅野光春)
当時十三歳の打木さんの記憶に残る横浜大空襲は、二つの「地獄」だ。一つは焼夷弾(しょういだん)による火炎と煙の中を逃げ惑ったこと。「焼夷弾って分かる? 落ちると、中に詰めた油がシューッと出てきて、点火する。木造の家はすぐ燃える」
その日、横浜市内の工業学校に登校するとすぐ、空襲の危険があるからと自宅に帰らされた。乗った電車は空襲が始まると止まり、打木さんは道路脇の小山に掘られた横穴型の防空壕(ごう)に避難。だが十五分ほどで火の手が迫り、壕を出た。
すると晴天の空が煙で覆われ、あたりは暗い。「壕にいた短い間に、夜になったようだった。腰が抜けて自分は今日死ぬと思った」。道には燃えて倒れた木製の電柱が転がる。路上をはう電線をよけて走り、自宅の防空壕に潜った。「防空壕といっても、各家庭のものは床下に穴を掘っただけ。家が焼け、壕の中で蒸し焼きのようになってしまい、亡くなる人もいた」
自宅の近くに焼夷弾が落ち始めると、母親に「逃げなさい」と言われて壕を出て、近くの学校のグラウンドへ近所の人と列を成して走った。前で転んだ年配の女性を、勢いのまま踏んで進んだ。「自分が逃げるので精いっぱい。人の体を踏んだ、ぐにゃっという感覚は今も残っている」
一時間足らずの空襲の後、打木さんが見たのは「第二の地獄」だった。自宅近くの寺の境内に、真っ黒焦げの人や、焼けていないが動かない人、赤ちゃんを背負った女性など、多数の遺体が横たえられていた。「百以上はあったと思う。熱い中を逃げ回ったのに続く、地獄の光景だった」
そこに、顔にやけどをした母親が歩いてきた。近所の人の避難を助けていたという。「地獄」の中、ホッとした瞬間だった。だが自宅は全焼し、その晩は親戚宅に身を寄せた。
死と隣り合わせながらなんとか助かった記憶を、大勢の前で語るのは初めて。「戦争の苦難は、兵隊さんだけに降り掛かるのではない、と伝えたい。それに、いまの核ミサイルなら、一瞬で何十万人も亡くなる。絶対に戦争をやってはならない、というのが結論です」と力を込める。
「つどい」は、資料代五百円。問い合わせは「横浜の空襲を記録する会」=電090(8303)7221=へ。

◆資料展示や講演、朗読劇
戦争の悲劇を繰り返さないため、過去を知ろう−。横浜大空襲の資料展示や戦争に関する講演などがある「2017平和のための戦争展inよこはま」は六月二〜四日、かながわ県民センター(横浜市神奈川区鶴屋町)で開かれる。
空襲や学童疎開横浜市内の戦跡など、戦時の様子を伝える資料など約五百点を展示。三、四日の午前十一時からは横浜大空襲の体験者らが会場で当時の記憶を振り返る。入場無料。
特別企画として、三、四日の午後一時半から講演会や朗読劇も予定(資料代五百円)。一九七七年九月に横浜市緑区(現在は青葉区)に米軍機が墜落し、母子三人が亡くなるなどした事故から四十年を迎えるため、三日は、俳優の高橋長英さんの朗読とトーク「横浜米軍機墜落から四十年−ハトポッポを歌いながら」などを予定。四日は、作家の山崎洋子さんの講演「横浜の光と影」などがある。同展事務局を務める吉沢てい子さん(67)は「戦争で何が起き、戦後、そして今にどうつながっているのかを見つめてほしい」と語る。問い合わせは実行委員会=電045(241)0005=へ。

<横浜大空襲> 1945(昭和20)年5月29日午前9時22分から同10時半にかけ、米軍のB29爆撃機約500機とP51戦闘機約100機が横浜市中心部を襲撃。木造家屋が火災を起こしやすい焼夷弾を約44万個、約2600トン投下した。直後の記録によれば、横浜市内では死者3649人、負傷者1万197人、行方不明者300人の人的被害があり、7万8949戸が焼けるなどした。横浜市は戦時中、ほかに20回以上、空襲を受けた記録がある。