盧溝橋事件80年 戦争しない責任 国会前不戦集会 - 東京新聞(2017年7月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201707/CK2017070902000109.html
https://megalodon.jp/2017-0709-1018-39/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201707/CK2017070902000109.html

一九三七年七月七日夜に中国・北京郊外で起き、日中戦争の発端となった「盧溝橋(ろこうきょう)事件」から八十年の節目に合わせ、国会前で不戦を誓う集会が七日夜と八日に開かれた。計約三百五十人が参加し「二度と戦争をしない国に生まれ変われたのか。自らの足元を問い直したい」と訴えた。 (辻渕智之)
首都圏の有志グループ「日中戦争80年市民フォーラム」が主催。八日午後三時からの集会ではメンバーの植松青児(せいじ)さん(56)=東京都国立市=が「侵略戦争に直接関わっていない私たちの世代ですが、同じ過ちを繰り返さない、再発防止の責任はあります」と宣言文を読み上げた。
参加した千葉県我孫子市の会社員下地寿弥(しもじひさや)さん(27)は沖縄・宮古島の出身。「日本には過去の侵略を反省せずに否定する政治家がいる。軍事力も拡大しており、南西諸島で進む自衛隊の部隊配備は中国には威嚇に見えるのでは」と話した。
神奈川県大磯町の絵画講師、滝清子さん(61)も「『共謀罪』法が成立し、文化や芸術でも自由な表現ができない世の中になりかねない。自覚して発言していきたい」とマイクを握った。

◆「庶民が当たり前のように死ぬ」 日中戦争で出兵・中村さん(100歳)
日中戦争中国東北部満州国に出兵した中村仁一(にいち)さん(百歳)=兵庫県姫路市=は、戦線が拡大して泥沼化し太平洋戦争へとつながっていく過程を今も証言できる数少ない一人だ。断片的ながら鮮明に残る記憶をゆっくりとたどり、「無謀な戦いだと、当時から分かっていた」と繰り返す。 (神戸新聞・小川晶)
生まれたのは、ロシア革命が起こり第一次世界大戦で米国がドイツに宣戦布告した一九一七年。尋常小学校を終え、京都の呉服屋に住み込みで働いた。
「臨時召集ノ爲(た)メ野砲兵第十連隊ニ應(おう)召」。軍歴は二十歳から。「みんな兵隊にとられとるし、嫌がったら国賊や。お国のために死ぬ善しあしなんて考えもせんかった」
部隊は旧ソ連領に近いハイラルで国境守備隊に編入された。三九年五月、日ソの紛争「ノモンハン事件」が発生。守備隊は大きな被害を受けたが、中村さんは後方勤務で助かった。かん口令が敷かれ、前線の様子は不明だったが、二百人ほどいたある部隊で戻ってきたのは十人足らずだった。
四〇年八月に召集が解除されるまで、ハイラル周辺で警備に携わった。その間も日本軍は中国大陸で戦線を拡大。同僚と「国が広くて、人口も多い中国相手に勝てるんやろうか」と話したことを覚えている。
一年後に再召集され、現在のマレーシアで経理担当となり四六年五月に復員した。兵役通算は七年四カ月。戦争に染まった二十代を「悔やんでもしゃあない。『戦争がなかったらこんなことできた』いうんは、考えるだけやぼや」と話す。
しかし、戦争に意義を感じていたわけではないという。戦地での体験で「無謀な組織が無謀な戦いを進めている」と気付いた。
中国軍から奪った旧式の武器を前線で使うほど貧弱な装備。ノモンハンソ連軍の装甲の厚い戦車を目の当たりにすると、体一つで近づいて手りゅう弾で攻撃する訓練が始まった。「自分の体は自分で守れ」と訓示した上官がありがたくもあり、浮いた存在にも見えた。
「一兵卒でも『こんなんで勝てっこない』って分かるような戦争を延々と続けて、庶民が当たり前のように死んで。軍のお偉いさんたちは、どんな価値観で指揮しとったんやろうなあ」

<盧溝橋事件> 1937年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で発生した日中間の軍事衝突。銃声をきっかけに、演習中の日本軍と橋を守備する中国軍が戦闘になり、全面戦争に突入した。日本は南京を占領するなど戦線を拡大したが、中国を支援する米英などとの対立が深まり、41年12月8日の太平洋戦争開戦につながった。