盧溝橋事件80年 100歳元兵士「無謀な戦い」 - 神戸新聞NEXT(2017年7月7日)

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1937(昭和12)年7月7日、中国・北京郊外で起きた「盧溝橋(ろこうきょう)事件」により日中戦争が始まって80年。中国東北部の旧満州国に出兵した姫路市の中村仁一(にいち)さん(100)は、戦線が拡大して泥沼化し、太平洋戦争へとつながっていく過程を今も証言できる数少ない一人だ。断片的だが鮮明に残る記憶をゆっくりとたどりながら、「無謀な戦いだと当時から分かっていた」と繰り返す。(小川 晶)
ロシア革命が起こり、第1次世界大戦で米国がドイツに宣戦布告した1917(大正6)年生まれ。「原爆詩集」を著した詩人の峠三吉や、戦没したプロ野球の名投手、沢村栄治が同年に生を受けている。
家島本島(現・姫路市)で育ち、尋常小学校6年間の課程を終えると京都の呉服屋に住み込みで働いた。「臨時召集ノ爲メ野砲兵第十連隊ニ應召」。中村さんの軍歴書類は、20歳だった38(昭和13)年1月の記述から始まる。
「みんな兵隊にとられとるし、嫌がったら国賊や。お国のために死ぬ善しあしなんて考えもせんかった」
部隊は、旧ソ連領に近いハイラルで国境守備隊に編入される。翌39(同14)年5月、日ソの紛争「ノモンハン事件」が発生。圧倒的な兵力差により守備隊は大きな被害を受けるが、中村さんは後方での勤務を命じられて助かった。
かん口令が敷かれ、前線の詳しい様子は分からなかったが、200人ほどいたある部隊で戻ってきたのは10人足らず。生き残った兵士が「弾を撃ったらあかん。全然効かんし、猛烈な仕返しがくるだけや」と漏らすのを聞いた。
中村さんは、40(同15)年8月に召集が解除されるまでハイラル周辺で警備に携わった。その間も、日本軍は中国大陸で戦線を拡大。同僚と「国が広くて、人口も多い中国相手に勝てるんやろうか」と話したことを覚えている。
家島に戻った1年後、再び召集され、今度は南方へ。太平洋戦争開戦直後に日本軍が占領した現在のマレーシアで、経理担当の下士官として衣料の管理や修繕などに当たり、46(同21)年5月に復員した。
軍歴書類に記された兵役の通算は、7年4カ月。戦争に染まった20代を、中村さんは「悔やんでもしゃあないし、戦後の生活の支えになった思うとる。『戦争がなかったらこんなことできた』いうんは、考えるだけやぼやから」と努めて肯定的に振り返る。
一方で、戦争に意義を感じていたわけではない、とも強調する。戦地での数々の体験で「無謀な組織が無謀な戦いを進めている」と気付いたためという。
中国軍から奪った旧式の武器を前線で使うほど貧弱な装備。ノモンハン事件ソ連軍の装甲の厚い戦車を目の当たりにすると、体一つで近づいて手りゅう弾で攻撃する訓練が始まった。「自分の体は自分で守れ」と命の大切さを訓示した上官が、ありがたくもあり、浮いた存在にも見えた。
「一兵卒でも『こんなんで勝てっこない』って分かるような戦争を延々と続けて、庶民が当たり前のように死んで。軍のお偉いさんたちは、どんな価値観で指揮しとったんやろうなあ」

【盧溝橋事件】1937年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で発生した日中間の軍事衝突。銃声をきっかけに、演習中の日本軍と橋を守備する中国軍との間で戦闘になり、全面戦争に突入する。日本は南京を占領するなど戦線を拡大したが、中国を支援する米英などとの対立が深まり、41年12月8日の太平洋戦争開戦へとつながった。