日赤の元従軍看護婦語る惨禍 「戦争は何も得しない」 - 東京新聞(2017年5月13日)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017051390135518.html
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日本赤十字社(東京都港区)が今月、創立140周年を迎えた。戦前の日赤の歩みは軍とともにあった。日赤の看護婦は兵士と同様に「赤紙」で召集され、延べ3万人以上が従軍看護婦として戦地に赴いた。日中戦争と太平洋戦争で2度召集を受け、広島原爆の惨禍も目撃した佐賀市の元従軍看護婦、久米正子さん(95)もその一人。自らの体験を振り返り、「最近、戦争という言葉を聞くことが増えた。今の国民は政府にあおられているのではないか。歯がゆさを感じます」と語る。 (加藤行平)
佐賀の高等女学校卒業後、山口赤十字病院の看護婦養成所に入所。卒業直後の一九四一年四月、十九歳で最初の召集を受けた。配属先は中国・山西省の太原(たいげん)陸軍病院。重症病棟も担当した。「最期を迎えた兵隊さんは若い私を『お母ちゃん』と呼んだ。内地の母親とダブっていたのか」
二年余で召集解除になり、いったん帰国。「これで終わり」と思ったのもつかの間、四カ月後の四三年九月、二度目の召集を受けた。行き先はシンガポール海軍病院。病院船の氷川丸で南方に向かった。インドネシアのスラバヤ港外では近くで機雷が爆発した。大きな水柱が上がり、激しく揺れたが、幸い沈没は免れた。
四五年二月、「氷川丸が来ている。女性は引き揚げろ」と突然の指示を受けた。残される患者たちの異様な雰囲気を感じながら、内地に戻り、山口県岩国市の海軍病院勤務となった。その内地勤務が皮肉にも最も悲惨な体験になった。
八月六日。「朝の引き継ぎ中、ものすごい光を感じた。少し遅れて『ドォーン』という音と振動がした」。岩国と直線で約四十キロ離れた広島の方角。「東の方にムクムクとわき上がる灰色の雲が見えた。頭の上に覆いかぶさるように大きくなり、まるで生きているようでした」。原爆のきのこ雲だった。
続々と患者が運ばれてきた。「初めて診る症状の患者ばかり。全身真っ黒で皮膚がむけ、ベラベラだった」。手の施しようがなく、傷口にわいたウジを取るだけ。最初はピンセットで取っていたが、追いつかずタワシで落とした。病院に来た時は話ができた患者が、数時間後には死んでいった。病院裏手の山に運んで火葬する日々が続いた。自分より若い少年少女らも大勢をみとった。「こんな子が何をしたのか」。間もなく、終戦を迎えた。
戦後は日赤佐賀県支部に所属。水害救援などに従事し、地元の看護学校や短大で後進の指導にもあたった。「戦争で亡くなった人の分まで生きているのかもしれない」。そんな思いを抱いて生きてきた。「戦争はばかばかしい。何も得することはありません。その悲惨さを、多くの人に感じてほしい」

<日赤と従軍看護婦> 幕末の佐賀藩士で明治維新後、大蔵卿などを務めた佐野常民(1823〜1902)が西南戦争の負傷者を救護するため1877年5月1日に設立した博愛社が前身。87年に日本赤十字社と改称した。従軍看護婦日清戦争で初めて国内の陸海軍病院に配属。日中戦争、太平洋戦争では戦線の拡大とともに大勢が召集され、陸海軍大臣の管理下に置かれた。1人の看護婦が複数回召集され、延べ数は約3万5千人。このうち1124人が殉職した。一般兵士と同様、赤い紙に印刷された「戦時召集状」が届けば、家庭事情にかかわらず応じなければならなかった。