憲法審査会 権力が鎖を解かぬよう - 東京新聞(2016年11月19日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016111902000188.html
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改憲のための改憲」であってはならない。衆院憲法審査会でこの原点が確認されたとは言い難い。多くの国民から要望が出ているわけでもない。目的があいまいな議論を進めるのに反対する。
みんなで憲法を議論しましょう。よりよい憲法をつくりましょう−。もっともらしい理屈だが、この考え方は実に危険だ。何のために憲法を改正するのか明示せず、「改憲ありき」の議論のスタイルだからだ。
とくにいわゆる「お試し改憲」は権力の目的外使用にあたる。権力の乱用であると憲法学者は指摘している。まず、この点を押さえるべきである。
実際に「よい憲法」とは、十人いれば十通りの考えが出るものであろう。収拾のつかない空想的なテーマ設定といえる。実際に憲法審査会でも各党がばらばらの意見を述べ合うだけにとどまった。
自民党は九条などを、民進党立憲主義から、公明党は新たな条文を加える「加憲」、共産党社民党改憲反対、日本維新の会統治機構改革や憲法裁判所…。各党の問題意識は理解するが、何のための審議かわからない。
こんな事態になるのは、そもそもなぜ現行の憲法を変えなければならないか、喫緊の事態がないからである。具体的な改憲の必要性に迫られていないからである。
自民党から「国民は今の憲法では家族や国家を守れないと考え始めている」との指摘があった。果たしてそうだろうか。
国民の側からみても今、改憲しないと平穏な暮らしが脅かされる事態が起きているわけでもない。改憲とは幅広い国民層からそれを求める声が湧き上がって初めて着手するべきものである。
むしろ改憲を求めているのは、「改憲派」の国会議員本人たちだ。衆参両院で三分の二以上に達した今、いよいよ改憲発議に向けて動きだしたというのが真相であろう。
いわゆる「押し付け憲法論」を自民党はいうが、同じ与党でも公明党はこの考え方を否定している。占領軍という外圧を利用しつつ、帝国議会で議論し、自らの憲法をつくり上げたと考えるべきである。公布から七十年、連綿とこの憲法は守られ続けている。その重みをかみしめるべきだ。
憲法とは権力が暴走しないように発明された制御装置である。その政治権力者たちが鎖を解くがごとく、自ら装置の改変に没頭すること自体に矛盾がある。