憲法の岐路 公布から70年 主権者の意思が問われる - 信濃毎日新聞(2016年11月3日)

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きょうは文化の日。敗戦から1年余を経た1946年のこの日、現憲法は公布された。それから70年。私たちはいま、改憲がかつてなく現実味を帯びる中で、この日を迎えている。
7月の参院選を経て、与党の自民党を中心とする改憲勢力は衆参両院で3分の2を超す議席を占めるに至った。改憲案の国会発議に必要な議席数である。
安倍晋三首相はかねて、在任中の改憲に意欲を隠さない。党総裁任期の延長による、さらなる長期政権が視野に入った。その状況で、衆院憲法審査会が動きだす。
振り返れば、公布60年の2006年当時も安倍氏は政権の座にあった。憲法改正の手続きを定める国民投票法を成立させ、改憲に道筋を付けている。
憲法審査会は、この法律に基づいて衆参両院に設けられた。過去に置かれた憲法調査会とは位置づけを異にし、改憲原案を審議する役割を担う。
<土台掘り崩す動き>
当時の安倍政権下で改定された教育基本法は、「愛国心」を教育の目標に据えた。憲法と理念を共有する基本法の根幹を変えることは、改憲の一里塚でもあった。
12年末の総選挙で政権を奪い返した安倍首相の下、勢いを増して進むのは、憲法と民主主義の土台を掘り崩す動きである。特定秘密保護法を制定したこと、歴代内閣の憲法解釈を一方的に変更して集団的自衛権の行使に道を開いたことは、その最たるものだ。
秘密保護法は、防衛、外交など政府が持つ広範な情報を「特定秘密」に指定し、漏えいに重罰を科す。知る権利や報道の自由を侵害するばかりか、市民活動の抑圧に悪用される懸念も大きい。
集団的自衛権をめぐる憲法解釈について、首相は国会で「最高責任者は私だ」と述べた。権力を憲法で縛る立憲主義を軽んじる発言と批判されている。大多数の憲法学者らが違憲と指摘する声にも耳を貸さず、安全保障関連法は与党の力ずくの採決で成立した。
<覆される根本理念>
自民党民主党政権下の12年、新たに改憲草案をまとめている。「わが党の案をベースにしながら、どう3分の2を構築していくかが政治の技術だ」。7月の参院選の翌日、安倍首相は語った。
いよいよ具体化の段階に入ったという意気込みがにじむ。だが、自民党草案は改憲論議のベースになり得る内容ではない。
憲法13条は、すべて国民は「個人として」尊重される、と定める。草案はこれを「人として」に改めた。わずかな違いのようだが、根本的な隔たりがある。
多様な個人をかけがえのない存在として尊重する。それが人権保障の大前提だ。個ではない「人」と捉えるのでは、人権を守る憲法の核心が失われる。
草案に鮮明なのは、「公益、公の秩序」を個人の権利に優先させ、国家を重視する姿勢である。憲法の前文が「日本国民は」で始まるのに対し、草案は「日本国は」で始まる。基本的人権は永久に侵すことができないと宣言した97条は、丸ごと削除している。
<次の世代への責任>
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重―。憲法の3原則を草案はことごとく覆しかねない。9条2項「戦力不保持」の規定は削り、「国防軍」を明記した。天皇を「元首」とし、日本は「天皇を戴(いただ)く国家」と位置づけている。
自民党は先月、草案を憲法審査会に出さないことを決めた。事実上の棚上げだが、撤回したわけではない。党が草案に沿って改憲を目指すことに変わりはない。
もとより憲法は、国内外の状況の変化を踏まえて、改めるべき点があれば改め、足りないところは補っていくべきものだ。その判断をするのは主権者の国民である。議論は大いにあっていい。
大事なのは、何のために憲法はあるか、という根本に立ち返って考えることだろう。歴史の教訓が憲法には刻まれている。国民主権や人権の保障は、専制政治や独裁に人々が苦しんだ時代を経て獲得されてきた普遍的な価値である。ゆるがせにはできない。
9条の平和主義の背後には、戦争と核がもたらした惨禍への痛切な反省と不戦の願いがある。武力なき平和を目指す理念を手放すわけにはいかない。この憲法に立脚して世界の平和にどう貢献するかを考えるべきだ。
であればこそ、安倍政権下で進む改憲の動きの危うさに目を向けなければならない。底流にある憲法観、歴史観を含めて、何が変えられ、どんな社会がつくられようとしているのかを見極め、声を上げたい。
それは次の世代に対する責任でもある。憲法が脅かされる現在の状況は半面で、主権者である私たちが憲法の価値を自らのものとする機会になり得る。問われるのは、一人一人の意思である。