大船収容所の記憶をイラストで伝える 米軍捕虜一団、最後の帰国から71年:神奈川 - 東京新聞(2016年8月24日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201608/CK2016082402000167.html
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太平洋戦争中の一九四二年から四五年まで、鎌倉市植木に米軍将校らを収容する海軍の大船捕虜収容所があった。捕虜は終戦で順次帰国し始め、最後の一団が同年九月一日に帰国の途に就いてから、間もなく七十一年になる。跡地は宅地になり、痕跡を見つけることは難しいが、住民たちの間で当時を再現したイラストを使い、歴史を語り継ごうとする動きが出ている。 (草間俊介)
「収容所は軍の統制下に置かれ、住民撮影の写真などはない。イラストは私や同級生らの記憶と一致し、歴史を伝える貴重な資料です」
小学校の時に、収容所を見たという郷土史家の関根肇さん(79)はこう話し、手書きのイラストを取り出した。イラストは二十年前に当時六十代の住民(故人)が記憶を頼りに、孫の夏休みの宿題のために描き、その後関根さんらが受け継いだ。
関根さんらによると、収容所は旧小学校の空き校舎が転用された。約八十メートル×約三十メートルの敷地に、コの字形の木造の建物。イラストにはバレーボールコートや捕虜の墓も描かれた。収容所全体が高さ約二メートルの木の塀に囲まれていたが、塀の板には多数のすき間があり、子どもたちは好奇心から中をのぞいたという。
夏は窓が開け放たれ、捕虜が審問される様子などが見えた。周辺は田園地帯で、関根さんは捕虜十人、監視の日本兵四人が一組になって散歩する姿も目にした。「虐待はあっただろうが、捕虜が上級将校ばかりだったせいか、日本の将兵と和気あいあいとやっていたように見えた」
捕虜は地元主催の運動会に出場した。捕虜の中にベルリン五輪(三六年)の陸上五千メートルの米国代表で映画「不屈の男 アンブロークン」の主人公ルイス・ザンペリーニ氏がいた。
同氏は四三年九月から約一年間収容され、その後、他の収容所に移された。同氏も大船収容所では運動会に出場した。イラストには徒競走で一等を取って賞品のサツマイモをもらって喜ぶ姿がある。
このほか、捕虜と住民が塀越しに缶詰と野菜を交換する場面や、終戦直後に米軍がパラシュートで投下したドラム缶入りの援助物資を捕虜と住民が一緒に荷車で集めるなど、捕虜と住民の関わりも描かれている。
中学校で陸上をやっていたという男性(84)も運動会で捕虜たちを目撃し、「ザンペリーニ氏の走るフォームは素晴らしく美しく、強烈な印象として残っている」と振り返る。
関根さんは「大船に捕虜収容所があったことを知る人は少なくなった。イラストを地域のイベントで活用するなどして、地元の歴史を引き継いでいきたい」と話している。

大船捕虜収容所の手書きイラスト。旧小学校の空き校舎が使われていた
<大船捕虜収容所> 正式名は「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」。海軍が太平洋戦争で捕虜にした米軍将校らから軍事情報を聞き出すために設置した。捕虜は審問の後、数カ月〜数年で他の収容所に移された。収容者は500〜1000人とみられ、終戦時には米英の135人がいた。捕虜6人が死亡し、日本側の約30人がB・C級戦犯として裁かれた。