英連邦捕虜の最期を伝えたい 横浜の女性が42年間調査 遺族らに情報 - 東京新聞(2016年11月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201611/CK2016111402000054.html
http://megalodon.jp/2016-1115-0915-01/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201611/CK2016111402000054.html

第二次世界大戦中、日本で強制労働の末に死亡し、英連邦戦死者墓地(横浜市保土ケ谷区)に眠る約千七百人の捕虜たちは、どんな生涯を送ったのか−。同市に住む田村佳子さん(67)は四十二年間、調査を続け、遺族らに伝えてきた。「私たち日本人が歴史を見つめ直すきっかけに」と、日本ではあまり語られることのない負の歴史の発掘を続ける。 (加藤豊大)
十三日、英連邦の各国大使や遺族ら百人が参列し、墓地で営まれた慰霊祭。オーストラリア人のケネディ・ウェンディさん(72)が墓前で涙を流すと、田村さんはそっと寄り添った。
ウェンディさんの兄、ファーリーさんは一九四二(昭和十七)年にシンガポールで日本軍の捕虜となり、四三年に直江津捕虜収容所(新潟県上越市)に連行された。腹をすかせて食料を盗み、日本兵に銃で激しく殴られた。全裸で大雪の中を長時間立たされ、四四年一月、二十三歳で死亡した。この収容所では六十一人の捕虜が死んだ。
ウェンディさんは、二十四歳離れた兄と一度も会ったことはない。今年偶然、遺品を見つけ「もっと兄のことが知りたい」と初めて来日した。田村さんはウェンディさんに言った。「かつて日本がしたことを申し訳なく思います」
田村さんが活動を始めたのは七四年、結婚を機に墓地近くに引っ越したのがきっかけだった。英国人の墓地管理人の誘いで慰霊祭に出席すると、英国人の元捕虜から鋭い視線を向けられた。「明日も頑張ろうと収容所で話した友人が、翌朝死んでいた。今もトラウマ(心的外傷)に苦しむ戦友が多くいる」と語り掛けられた。
戦後間もなく大阪府で生まれた田村さんは、戦争中、日本人がひもじい思いをしたと両親から聞かされた。「でも、戦勝国にも苦しんでいる人がいるとは考えもしなかった」
以降、何度も墓地に足を運んだ。その後、当時放送ライターだった笹本妙子さん(68)=保土ケ谷区=や収容所問題の研究者と知り合い、二〇〇二年にPOW(戦争捕虜)研究会を発足。英国、オーストラリアなど五カ国にも渡り、遺族や元捕虜らとの面会や文献調査を重ねた。
肉親が、どう亡くなったのか手がかりがない人も多い。〇四年に国会図書館(東京都千代田区)で日本軍が作成した千七百人の捕虜の死因や死亡場所をまとめたリストを発見。インターネット上で日本語と英語で公開すると、すぐにメールで約百件の反応があった。
英国人女性からは「リストを見つけたときは涙が出てきた」と告げられた。今も毎週のように「最期を知りたい」と連絡が届く。〇六年、田村さんは笹本さんとともに英国の勲章を授与された。
ケネディさんは、田村さんに答えた。「日本人は怖いものだと思い、ずっと行く気にならなかった。当時のことを忘れないあなたたちの活動に、心がほぐれていくような気がします」
田村さんは「平和な生活を守るため、日本が他国に与えた苦しみに目を向け、語り継いでほしい」と願う。

<英連邦戦死者墓地> 英国とかつての植民地で構成される英連邦のうち、第2次世界大戦に連合国軍として参戦した英国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド軍の捕虜約1700人が埋葬されている。日本に連行された連合国軍捕虜は3万数千人とみられ、全国130カ所の収容所で日本兵らによる厳しい監視の下、炭坑や造船所、軍需工場などで肉体労働を強いられ、約3500人が死亡した。過去には英国のサッチャー、ブレア両元首相や故ダイアナ妃らが訪問、毎年11月に英連邦各国大使館が持ち回りで慰霊祭を開いている。