語り継ぐ5・29 横浜大空襲71年(上) 後世に残すには…:神奈川 - 東京新聞(2016年5月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016052602000180.html
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好天の朝が夕方のように暗くなったという。横浜大空襲で焼夷(しょうい)弾が家々を焼き尽くす黒い煙は、空を覆う雲のように闇をもたらした。
横浜市戸塚区の増田成之さん(90)は、脳裏に焼きつく光景を今年も絵筆でよみがえらせた。炎が迫る横浜三塔(県庁・横浜税関横浜市開港記念会館)を押しつぶしそうな黒煙。20号の油彩画の上半分を占める。小さな希望のように、ところどころ青空がのぞく。
「あの時は焼死体がごろごろ。でもへっちゃら。感覚がおかしくなってたんでしょうね」。子どものころから絵が得意な増田さん。絵で語り継ごうと、十一年前から大空襲を描く。今年は制作に四カ月かかった。「去年までは一カ月で描けた。来年は描けるかな」。体力の衰えを心配する。
横浜戦災遺族会会長の池谷倫代さん(61)は「焼死体がごろごろ」の光景を幼いころから聞いた。「伊勢佐木町、阪東橋…。父によれば、焼けた遺体があちこちに重なっていた」
一九九四年に六十五歳で亡くなった父・栄一さん。戦後も街を歩いていると光景がよみがえり、「ここは通りたくない」と引き返すこともあった。焼き魚も嫌った。
心に深い傷を残した大空襲。栄一さんは真っ暗な中で見つけた十円玉ほどの青空の方角に逃げ、助かったという。「このとき父が亡くなっていたら、私は生まれていない」。だから、若い世代に伝えたいと願う。でも、「五十代でも、空襲を知らない人が多い」と語り継ぐ難しさも感じる。
大空襲の記憶も、戦争体験の生々しさも、少しずつ薄れていく。横浜の空襲を記録する会の常任世話人・藤井あつしさん(68)は「活動を継承する若手が見つからない」とこぼす。
会では戦後三十年の七五年から「横浜の空襲と戦災」全六巻を刊行した。戦争体験者の証言や米国の資料を網羅し、「あの戦争を考える土台になるもの」(藤井さん)だ。その後も大空襲の日に合わせ年一回の集まりを開いている。
しかし会報を送る相手は一人、また一人と亡くなり、活動の限界も感じる。「できれば空襲資料館を造りたい。これが運動として広まれば、展望が開けるのだが」と藤井さん。将来の目標が、過去を語る原動力になるかもしれない。
星槎(せいさ)大教授の伊藤玄二郎さん(72)は、別の角度から「語り継ぐには、生きる人間にとってのロマンが必要」と指摘する。昨年、伊藤さんが著した「氷川丸ものがたり」はアニメ映画にもなった。
横浜・山下公園に係留される氷川丸は、富裕層も傷病兵も運んだ珍しい船だ。戦前、日米を結ぶ貨客船としてデビュー。戦時中は日本軍の病院船に転用され、戦後は引き揚げ船や貨物船の役割も果たし、再び外国航路に復帰した。
「あきらめるな。いつか光は差してくる」。伊藤さんは、氷川丸からこんなメッセージを感じ、本にまとめた。悲惨さだけではなく、夢もみること。戦争で起きた出来事を学び、もう繰り返さないと考える道筋の一つになるのだろう。
大空襲で横浜が焦土と化して二十年たったころ。作家のジェームス三木さん(80)は歌手として、桜木町のナイトクラブに立っていた。外国船の観光客が詰め掛け、海外の曲を朝まで歌った。もう、戦争の爪痕は感じなかった。
それからさらに半世紀。消えかけていた戦争のきな臭さが、再び漂い始めている。ジェームスさんは「若い人には、戦争や平和を、自分から学び、自分なりに考えてほしい」と語る。
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横浜が焼け野原となり、多数の死傷者が出た横浜大空襲から、二十九日で七十一年となる。空襲の体験者が少なくなる中、悲惨な出来事と戦争を繰り返さない決意をいかにして後世に伝えるのか。語り継ごうとする人たちに、その思いを聞いた。 (梅野光春)

<横浜大空襲> 1945(昭和20)年5月29日午前9時20分ごろから同10時半ごろまで、米軍のB29爆撃機約500機が来襲、約44万発、2600トンの焼夷弾を投下した。被害は横浜市中、南、西区などを中心に広がり、直後の警察発表では死者3649人、負傷者1万197人とされた。この数字には空襲時に市外から来ていた人は含まれていない可能性などがあり、死者は8000人にのぼるとする研究もある。