(余録)「二月廿六日、事あり、友等、父、その事にかかわる… - 毎日新聞(2016年2月26日)

http://mainichi.jp/articles/20160226/ddm/001/070/176000c
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「二月廿六日、事あり、友等、父、その事にかかわる」。14年前亡くなった歌人斎藤史(さいとうふみ)に「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」の一首がある。親しい将校の刑死、連座した父親の禁錮(きんこ)刑と向き合った2・26事件だった。
当時作りながら未発表だった歌のうち2首は、93歳で亡くなった後に公表された。「ラジオくり返し勅命出(い)づと告ぐれどもそれらしきもの見たるものなし」「言はざれど女いちにん見てありき陸軍の闇その奥の帝国の闇」
陸軍の派閥抗争を背景に、国家改造を唱える皇道派青年将校が部隊を率いて閣僚・重臣らを殺害した2・26事件、それから80年になるきょうである。昭和天皇の激怒を招き、反乱軍とされた青年将校らは非公開・弁護人なしの特設軍法会議で裁かれ、多くが刑死した。
この事件で陸軍中央の幕僚からなる統制派が粛軍を名目に政治的実権を掌握、日本は日中戦争から対米英戦争への破局の道をたどることになった。政党政治が国民の信を失い、時代の方向感覚が失われるなか、クーデターの失敗が逆クーデターを成功させた形である。
2・26の記憶はその後も歴史を拘束し続けた。「主戦論を抑えたら、クーデターが起こったろう」とは対米開戦についての昭和天皇独白録の言葉だ。早期終戦ができずに犠牲者を激増させた戦争末期にもその影がうかがえる。軍暴発の恐怖の囚人となった帝国だった。
皇道派頭目、真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)は戦後、米尋問官に何とこう答えた。「私は今、天皇の力でも実現できなかったことが米国の力で達成されたことを実感しています」。天を仰ぐしかない歴史の教訓もある。