(余録)その施設を囲むヒイラギの垣根は… - 毎日新聞(2016年2月14日)

http://mainichi.jp/articles/20160214/ddm/001/070/118000c
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その施設を囲むヒイラギの垣根は3メートルほどの高さがあったという。人目を避けると同時に入所者が逃げ出さないようにするためだった。東京都東村山市にある「国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)」。かつてハンセン病患者がいわれなき差別を受け、隔離された場所の一つだ。
垣根は患者と肉親を分かつ厚い壁でもあった。元患者の家族約60人が「家族も深刻な差別の被害を受けたのに国は対策を講じなかった」として、国に謝罪と賠償を求める裁判をあす起こす。
一人の詩人がいた。塔和子(とうかずこ)さんは愛媛県に生まれ、戦時中の1943年、13歳で発病した。両親と引き離され、瀬戸内海の小島にある療養所に入所する。3年前に83歳で亡くなるまで詩を書き続けた。
「痛み」という作品はこう始まる。

<世界の中の一人だったことと/世界の中で一人だったこととのちがいは/地球の重さほどのちがいだった>

しかし生きることを諦めなかった。
人は無の中から生まれ、無の中へ消えていく。その寂しさをいっそう深く感じているのは、孤独の中で生と死に向き合う療養患者ではないか。そう思った塔さんは心に決めた。「この存在しているさびしさを、どこへすがるべくもない生きているさびしさを、療養者という壁を、せいいっぱい生き抜くことによって克服したい」
今なおヒイラギのトゲのように差別や偏見は残る。それでも塔さんは詩と出合い、力いっぱい生き抜いた。そして無に返り、願い通り両親の眠る古里の墓に分骨された。家族に迷惑をかけぬようにと、70年にわたって本名を伏せてきた。墓碑にはその名「井土(いづち)ヤツ子」が刻まれたという。