「特別法廷は憲法違反」 ハンセン病元患者・藤田三四郎さんが前橋で講演 - 東京新聞(2016年5月13日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201605/CK2016051202000201.html
http://megalodon.jp/2016-0513-0928-44/www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201605/CK2016051202000201.html

国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」(草津町)の自治会長で、元患者の藤田三四郎さん(90)が十一日、前橋市内のホテルで講演した。藤田さんは最高裁が四月、戦後に患者を裁判所ではなく強制隔離された療養所などで裁いた「特別法廷」の問題を検証した調査報告書に言及。「楽泉園で三人の患者が殺された事件では、(公開が原則の)裁判がシャットアウトされた。この事件をきちんと検証してほしかった」と厳しく批判した。 (菅原洋)
楽泉園での特別法廷を巡っては、一九五〇年に入所者三人が殺害された事件があり、入所者十四人が書類送検され、三人を起訴、一、二審とも開廷したとされる。法廷では、証人の別の入所者が裁判の公平性に疑問があると訴えていた。
講演で、藤田さんは「特別法廷は憲法(の平等原則や裁判の公開原則)に違反していたと思っている。患者をきちんと人間として扱って裁判するべきだった。国(と裁判所)は人権を無視した」と指摘した。
藤田さんは茨城県に生まれ、十九歳でハンセン病と診断され、楽泉園に入所した。入所者証言集では、発病を知ったとき「いっそのこと、首でもつって死んじゃった方がいいと、ベッドで二、三回やったけれど、死に切れなかった」と壮絶な過去を告白している。
講演で、藤田さんは楽泉園で戦後にあった強制労働による差別の歴史に触れた。「昔は患者が患者の看護をしていた。(まきなどに使う重い)炭を背負う運搬作業が大変で、苦しい体験だった。雨が降って川のようになった坂道をはい上がるように進み、歩けなくなった女性の患者を助けたこともある」と振り返った。
「(こうした差別の歴史を知る)高齢の方々がハンセン病が恐ろしい病気と若い人に伝えないようにしてもらえれば。全ての人は、偏見と差別の心を(潜在的に)持っている。自分を愛するように、他人を万分の一でもいいから愛してほしい」。藤田さんは来場した約七十人に語り掛けた。
講演会は市民団体などでつくる「生と死のフォーラム」の主催。十一日は、ハンセン病差別に対する国の責任を認めた熊本地裁の国家賠償訴訟判決から十五年目と、二年前に八十二歳で亡くなった国賠訴訟の全国原告団協議会長で、楽泉園の元患者、谺(こだま)雄二さんの命日に当たるために開かれた。
講演終了後、藤田さんは取材に、谺さんについて「十日に楽泉園の納骨堂で法要をした。勉強熱心で、教養がある人だった」と惜しんでいた。

<特別法廷> 裁判所法は災害で施設が使えなくなった場合などに他の場所で開廷できると規定。これを準用し、1948〜72年に全国各地のハンセン病療養所などで95件の特別法廷が開かれた。楽泉園では、4件の特別法廷が開かれた。唯一の殺人事件は、以前からの入所者たちの集団が対立していた新しい入所者3人をスコップで乱打するなどして殺害したとされる。4月25日に出された最高裁の調査報告書では、裁判所法に違反していたと認め、反省とおわびをしたが、憲法が定める裁判の公開原則に違反したとは認めなかった。