<どう向き合う少年犯罪(2)> 目の前の子を見つめて:神奈川 - 東京新聞(2016年2月3日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020402000195.html
http://megalodon.jp/2016-0204-1038-42/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020402000195.html

◆元川崎市立中学校教諭・大前博さん(65)
昨年二月に川崎市の中学一年上村遼太(うえむらりょうた)さん=当時(13)=が殺害された事件を振り返ると、「上村さんの発していたSOSになぜ気づけなかったのか」という疑問が繰り返し頭の中をめぐる。
例えば、中学校の部活動をやめたとき。部活動は子どもの生活の中で大きな位置を占め、交友関係をつくるのにも重要。そこに来なくなるのはどういう事情だったのか。
上村さんは昨年一月から長期欠席していた。学校に通う生徒と疎遠になり、他の子どもたちとの付き合いが生活の中心になったようだ。不登校の情報は教職員の間で共有されていたものの、上村さんの苦悩の中身は学校で把握されていなかったのではないか。不登校の中身は一人一人違う。その子の抱える悩みや課題は何か、関係する大人が共有しなければならない。
子どものささやかなSOSや思いを聞き取るには教職員の「ゆとり」が必要だ。今は常に仕事に追われている。教育行政は、先生を増やして働き方を見直したり、少人数学級にすることを考えてほしい。
加害少年たちが中学校時代や卒業後にどのような生活をし、一人の命を奪うという行為に至ったのかも考えないといけない。いじめや暴力にさらされて育った子が、人を攻撃することもある。特異な事件が起こると、問題を起こした少年が特別な存在だと切り離し、安心しようとする姿勢が大人にある。そうではなく、今、目の前にいる子どもたちはどうなのかともっと見つめ直すべきだ。
私たちは昨年六月、事件を考える市民のシンポジウムを開いた。百二十人が参加し、事件を人ごととしてでなく、自分たちに何ができるかを真剣に考えた。
教育委員会も事件の報告書を出すだけでなく、こうした対話の場に出てきてほしい。一九八〇年代に校内暴力が吹き荒れた時、市教委は学校区ごとで体育館に地域の人が集まる対話集会を開いた。私の学校でも、ある父親が「なぜぶっとばしてでも言うことを聞かせないんだ」と言えば、別の母親が「思春期の子を乱暴な姿勢で追い込んではいけない」と話した。他の母親が「子どもが家でシンナーを繰り返す」と打ち明けると、周りの保護者が「大丈夫だよ。あの子にはこんないいところがあるし」と励ました。
教員が保護者や市民と対話して、力をもらうことは多い。自分たちの問題として身近な子どもたちのことを考える。皆が当事者としてかかわるネットワークをどうつくるかも問われている。 (聞き手・横井武昭)
<おおまえ・ひろし> 1950年生まれ、川崎市中原区在住。市内の市立学校教諭らでつくる「市教職員連絡会」の役員。73年に市立中学校の教諭になり、昨年3月まで勤務した。現在は、市内の小中学校などで学習支援をする「教育サポーター」として活動する。