(筆洗)西洋人は絶えず明るさを求めて、「わずかな蔭(かげ)をも払いのけようと苦心する」 - 東京新聞(2015年12月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015120102000125.html
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西洋人は絶えず明るさを求めて、「わずかな蔭(かげ)をも払いのけようと苦心する」。作家、谷崎潤一郎は『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』の中にそう書いた。日本人はどうか。暗いことに不平を感じず、「仕方がないものとあきらめ、かえって、その闇に沈潜し、その中に自(おのずか)らなる美を発見する」。漫画家の水木しげるさんが亡くなった。この方も妖怪の舞う「闇」を礼讃した方である。
戦後七十年、代表作の「鬼太郎」から五十年。節目の年に紙芝居、貸本、雑誌という現代漫画の発展過程のすべてを見てきた心優しき「妖怪」がこの世を去った。
そのタッチは誰にも真似(まね)できぬ。重苦しく、暗く、執念深い点描。怖い。それでいて目がそちらに向く。慣れれば、その不気味な絵に不思議な落ち着きや慰めを覚え、虜(とりこ)になる。
例えるなら、田舎の祖母の古い家。軒深く、昼間さえ薄暗い部屋。電灯のつくる廊下の影。便所のにおい。かつての日本人が安らぎを感じた陰翳が水木漫画にはこもっていた。
日本人も闇を追放しようと必死である。成長、成功、開発。光にのみ拘泥し、失敗や人間の弱さを慰める闇を消した。その無理な光は人の心に影を落とすのだが、その影が妖怪や優しき闇よりも怖(おそ)ろしいことに気づきもしない。
鬼太郎のゲゲゲとは幼き日、シゲルをゲゲゲと言った、水木さんの愛称。鬼太郎の下駄(げた)の音が遠ざかる。寂しい。そして怖ろしい。