年のはじめに考える 歴史の教訓を胸に - 東京新聞(2016年1月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016010102000126.html
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新しい年は、大きな変化の年になるのかもしれません。歴史の歯車は静かに回り続けます。しかし、私たちが忘れてならないのは歴史の教訓でしょう。
忘れまいと言うのは、残念ながら人間は忘れやすいからです。
そう思い返したのは、最近亡くなった横浜在住の生物誌家S氏の観察年譜を読み返していた時でした。彼の家の周りの記録です。こうありました。
<一九六四年、東京オリンピック。このころ環境は最悪。七五年環境好転の兆しか、京浜一帯のキンモクセイが二十年近くの長い眠りから目覚め花をつけ始めた>
◆5年を経る原発事故
半世紀ほど前の環境悪化とその回復。観察者の彼はともかく、その時代を生きた者として当時の公害を果たしてどれほど覚えているだろうか。
今、花開き香りをふりまくキンモクセイを見て、私たちはその花の閉ざしていたころをどれほど思い浮かべられるだろうか。
キンモクセイに限らず、今、当たり前に見ていることほどその悪かったことは思い出しにくいものです。
ことしで五年を経ることになる福島第一原発事故。災禍は今も進行形です。もちろん誰も忘れてはいない。しかしどうでしょう。避難者の多くは帰れず大地は元には戻らない。
逆に、夜を昼とするように都会は電気を使い、手続きを経たとはいえ原発は順次動きだす。福島から、また原発立地地から遠いほど、ある種の忘却のようなものを感じさせないわけではない。
忘れたと言っているわけではありません。だがもしも忘却に似たものがあるのだとすれば、私たちは五年前変えようとしたことを変えもしないまま、再びあやまちを犯すおそれがあるのです。
◆シリア内戦重ね見る
もうひとつ重要な、忘れてはならないことがあります。
戦争です。
戦争をしてはならないということです。
先の大戦を体験した人は少なくなり、戦争を知らない世代は、妙な言い方ですが、忘れないために記憶をつくらねばならない。聞き知り学ぶということです。
昨年、戦争を知る人たちの訃報が相次ぎました。
哲学者の鶴見俊輔、漫画家水木しげる、作家野坂昭如の各氏や銀幕の原節子さんら。
この中の鶴見さんはベトナム反戦運動でも知られますが、戦争を忘れないよう、仲間の評論家二人と三人でかわりばんこに八月十五日が来るたびに、頭を坊主刈りにしていたそうです。満州事変来の十五年戦争だから十五年は続けようと。坊主頭にしてのこのこ歩くのはちょっと恥じらいがある、生き残った恥じらい、と話しています(「日本人は何を捨ててきたのか」鶴見俊輔関川夏央)。
鶴見さんらしいユーモアにも思われるが、そこには忘れてはならないという決意が感じられます。八月十五日には一食を抜いたそうです。
頭を刈るぐらい、一食を抜くぐらい、簡単なように見えますが、そういうことを思いつき、実行することは易しくはないでしょう。しかしやってみればむずかしくもないということに、この運動のおもしろさはあります。一人ひとりが考えるということです。行動できるということです。
戦争を知らない世代は、戦争を覚え続ける人たちを知って記憶をつくらねばなりません。戦争とは人を殺したり、殺されたりすることだ、と。
そういう創造的記憶のうえに、今のシリアの内戦、またテロを重ね見るのです。流血に過去も今もありません。
人類はやっぱり戦争を繰り返すのかと思えば悲観的にもなりましょう。だが戦争やテロを減らすには武力よりも、むしろ教育の普及や格差の是正が有用だという世界認識が広まりつつあります。
国際紛争を武力で解決しないという憲法九条の規定は、非現実的との批判をしばしば浴びてきました。だが、実は時代を経るほどに現実味を帯びてきているのではないでしょうか。人類の歴史は戦争史といわれますが、武力に勝る手段は過去にもあったはずです。外交はもちろん、戦争を起こさせない不断の努力です。
◆日本の目指す方向は
これから世界を武力の方向に傾かせるのか、それとも教育や格差是正の方向へと傾かせるのか。
どちらに向かうか。少なくとも日本が目指すべき方向は私たち国民が決めねばなりません。
その場合、見てほしいのは現在はもちろんだが、過去も忘れてほしくない。時代が揺れるほど、歴史の不動の教訓を胸に抱いていたいのです。