(筆洗)七十歳という節目に四六年の痛みも分かってやりたい - 東京新聞(2016年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016081502000110.html
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終戦の一九四五(昭和二十)年から七十一年である。当然ながら翌四六(昭和二十一)年からは七十年の節目である。
不可解な書き出しか。されど、終戦からの一年一年が復興や民主化にむけた大切な子どものような一年一年だとすれば、七十歳という節目に四六年の痛みも分かってやりたい。
戦争が終わって緊張は少しは和らいだかもしれぬが、四六年という「この子」もつらい日々であった。

<依然巷(ちまた)の声は絶望的である。真に真に絶望的である。日本人は、ひもじい腹をかかえ、夕闇の中にぼんやり立って、小さく溜息(ためいき)と共にこう呟(つぶや)くだけである。「負けたんだから、仕方がねェや」>(山田風太郎さん『戦中派焼け跡日記』昭和二十一年五月四日)。

インフレ、食糧難、闇市場。戦のナイフは抜けたとて、その傷はまだ悪化していた。それが四六年という年であろう。
この年十月、当時の流行歌を旧満州からの引き揚げ船の中で教えてもらった少年は明るい旋律にも心躍らなかった。少年とは作詞家のなかにし礼さん。戦後復興のテーマ曲のような「リンゴの唄」に「なぜ平気でこんなに明るい歌が歌えるのか」と感じた。自分だけが取り残された。その寂しさに泣いた。
玉音放送に「リンゴの唄」、戦後復興、高度成長。手抜きの戦後ドキュメンタリーのように歴史の傷は癒えはしない。四六年の七十歳にも手を合わせる。