受け継ぐのは私たち(中) 抑留の記憶を埋もれさせぬ:栃木 - 東京新聞(2015年8月21日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20150821/CK2015082102000191.html
http://megalodon.jp/2015-0822-0857-41/www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20150821/CK2015082102000191.html

開拓を志し、故郷の長野県から旧満州中国東北部)へ渡った今村さんは、現地でロシア語を学んだ。終戦後、ソ連軍に中央アジアへ連行されたが、語学力を武器に、一部のソ連兵や地元住民と心を通わせていたという希少な体験を持つ。
抑留中、今村さんは収容所のソ連兵から日本人捕虜を侮辱されたことに腹を立て、取っ組み合いのけんかをしたことがあった。激高した兵士に射殺されそうになった時、ロシア系の女性看護師が「私には捕虜の健康を守る義務がある」と叫んで二人の間に立ちはだかり、一命を取り留めた。
「彼女が収容所に赴任してきた時、私が馬車で迎えにいったのが縁で、言葉を交わす仲になった。危険を顧みず助けてくれたんだ」
捕虜の中には重労働に倒れる人がいた一方、余った材木で三味線を作って弾いたり、仲間同士で短歌を詠み合ったり、帰国までの日々を前向きに過ごそうとする機運もあった。そんな回想の数々を、味方さんは身を乗り出して聞き入った。
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カザフスタンでの日本人抑留> 1945年8月上旬、ソ連軍は旧満州樺太に侵攻。60万人超の日本人が捕虜としてソ連や周辺国に連行され、強制労働などに従事させられた。当時、ソ連を構成する国の一つだったカザフスタンには約5万8900人が抑留され、約1500人が死亡したとされる。