小さな拳 千葉の戦後70年(1) 開港反対 家族ぐるみ:千葉 - 東京新聞(2015年5月2日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20150502/CK2015050202000145.html
http://megalodon.jp/2015-0521-0914-35/www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20150502/CK2015050202000145.html


六六年六月、政府と千葉県が極秘裏に進めた成田市三里塚案が突如浮上。佐藤栄作内閣(当時)は翌七月に建設を閣議決定した。建設候補地は下総御料牧場(国有地)を中心にした成田市芝山町の農村に広がる千六十五ヘクタールの地帯。予定地内には、二百五十〜二百六十戸の民家があった。
 寝耳に水だった地元農家は猛反発。八月には、成田市芝山町の農民を中心に「三里塚・芝山連合空港反対同盟」(戸村一作委員長)が結成され、長い反対運動が始まった。
 一帯は、江戸時代から続く水田と里山が広がる古村(こそん)と呼ばれる集落と戦後開拓してできた集落から成る。同町辺田の農家だった石井英祐(82)は、家が騒音地帯に含まれるとして移転を迫られた。「土地を捨てることは考えられない」。石井は集落の仲間とともに反対運動に参加した。
 闘争は農家の生活を一変させた。早朝から畑に向かい、夜は集会へ出掛ける。話し合いは深夜に及び、再び早朝から畑に向かう日々が続き、子どもたちだけが家に残された。
 萩原の両親も闘争に参加。「夜は収穫したスイカを磨きながら親の帰りを待っていた」
 そんな暮らしが一年続き、子どもたちの関心も自然と空港問題に向き始める。子どもたちから「一緒に集まる場所をつくりたい」と戸村委員長に相談。六七年八月五日、少年行動隊が結成された。反対同盟に参加する家庭の小学三年生から中学三年生まで約四十人が参加。石井の長女(岡田左千子)ら三人の子どもも加わった。
 石井は「闘争が始まってから旅行に連れて行くこともできねえ。せめて闘争の現場に一緒に連れ出し、家族の断絶をなくそうとしたわけだ」と振り返る。家族ぐるみの闘いが始まった。

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成田空港が日本の空の玄関として開港するまで、地元農民らは大きな反対運動を繰り広げた。小さな拳を振り上げ大人たちに加勢し、翻弄(ほんろう)された少年行動隊を通じて「日本最後の農民闘争」を振り返る。 (砂上麻子)