国は逆らうこと許さなかった 富里市の君塚義輝さん(92)千葉から語り継ぐ戦争 - 東京新聞(2015年5月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/chiba_kataritugu/list/CK2015051102000170.html
http://megalodon.jp/2015-0521-0934-24/www.tokyo-np.co.jp/article/feature/chiba_kataritugu/list/CK2015051102000170.html

「太平洋戦争と成田空港建設。国は逆らうことを許さなかった」。富里市御料の君塚義輝さん(92)は戦時中、海軍などの技術者として従軍。戦後は成田空港建設のため立ち退きを迫られ、反対運動に身を投じた。二つの戦いを振り返り「国は今でも一方的だ」と憤る。 (渡辺陽太郎)
一九二三年、成田町(現成田市)生まれ。実家の荒物屋は経営が苦しく、十歳から千葉市の酒屋などに奉公に出た。四〇年、海軍に志願。神奈川県横須賀市の横須賀海軍工廠(こうしょう)造船部に配属され、空母信濃の建造などに関わった。
四四年、旧満州中国東北部)の部隊に配置換えとなり、自動車整備に従事。戦況の悪化を感じていたが憲兵の目が恐ろしく、疑問も口にできなかった。翌年、最前線に出ることなく本土に帰還。鹿児島県の部隊で終戦を迎えた。旧満州の部隊員三百人のうち、帰還できたのは百人。二百人は現地でなくなるか、シベリア抑留者となった。
「仲間はみんな優秀な技術者だった。国は国民無視の大義のため、一方的に彼らの将来を奪った」。戦後になってやっと、やってはならない戦いだったと気付いた。
成田市に戻り、五一年から同市十余三(とよみ)で鮮魚店を経営。妻の故金子さん=享年(83)=や親族の協力で経営は軌道に乗った。二人の子どもも順調に成長し、幸せを感じた。だが六六年、突然、成田空港建設が閣議決定され、状況は一変した。鮮魚店は現在のB滑走路直下で、立ち退きを迫られた。
「何も聞いていない。戦時中と同じで一方的だ」と反発。反対運動に参加し、座り込みなどに加わった。一方「最後には国に押し切られる」とも感じていた。激化する反対運動を徹底的にたたく機動隊などが、憲兵の姿と重なった。七三年に補償金を受け、十キロメートルほど離れた富里市御料に移った。
鮮魚店は続けたが、客足が伸びず数年で廃業。よそ者扱いを受け心も痛めた。「国は補償をしたが、その後の生活を考えていない。最後は金でも、対話をするべきだった。それを怠ったから今でも反対運動は終わらないんだ」と指摘する。
国は空港建設を強行したことを謝罪しているが、納得していない。安倍政権が国民の懸念をよそに他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認に突き進む姿に「またか」と思う。
「戦争も成田闘争も、国民を一方的に巻き込み、多くの被害を出した。国に逆らえない空気は、今も変わっていない」