風知草:ドイツ史に学ぶこと=山田孝男-毎日新聞(2013年8月5日)

1/2 http://mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c.html
2/2 http://mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c2.html

(魚拓1/2)http://megalodon.jp/2013-0805-1111-14/mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c.html
(魚拓2/2)http://megalodon.jp/2013-0805-1111-59/mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c2.html

ヒトラーは首相就任直後の1933年3月、立法権を国会から政府に移す全権委任法(授権法)を制定した(ナチス憲法をつくったわけではない)。

ワイマール憲法76条は改憲のハードルを「国会議員3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上が賛成する」ところに置いていた。全権委任法採決もこの規定が適用された。

採決当時は、国会議員647人中81人を占める共産党議員は、全員が、地下に潜るか、強制収容所に送られているかという状況だった。社会民主党議員も120人中26人が逮捕されていた。多くの国民は、反国家的勢力の規制はやむをえないと考えていた。

本会議場の建物はナチスの軍事・警察組織であるSA(突撃隊)、SS(親衛隊)と熱狂的なナチス支持者に包囲された。反対票を投じた社民党議員が「生きて議場を出られないのではないかと危惧した」(「ヒトラー/権力掌握の二〇カ月」=クノップ著、2010年中央公論新社刊)という状況の中で全権委任法は可決・成立した。

熱狂と強権の政治を許したものは世界経済恐慌(1929年)波及に伴う失業者の急増だった。