防衛費の拡大 米兵器購入の重いツケ - 朝日新聞(2018年12月23日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13824229.html
http://archive.today/2018.12.23-005301/https://www.asahi.com/articles/DA3S13824229.html

安倍政権による2019年度の当初予算案で、防衛費が5兆2574億円に膨らんだ。今年度当初より1・3%増え、5年連続で過去最大だ。
来年度は「防衛計画の大綱」と「中期防衛力整備計画」の初年度にあたる。中国や北朝鮮の脅威に軍事的に対抗する姿勢が鮮明になり、米国製兵器の購入に拍車がかかっている。
特に目立つのが、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の整備費1757億円と、F35戦闘機6機の購入費681億円だ。F35は147機体制をめざしており、将来的な追加取得費は約1兆2千億円にのぼる。一部は、空母化される「いずも」型護衛艦での運用が想定される。
陸上イージスにしろ、空母にしろ、巨額の費用に見合う効果があるのか、大きな疑問符がつく。それでも安倍政権が導入に突き進むのは、トランプ米大統領が掲げる「バイ・アメリカン(米国製品を買おう)」に呼応してのことだろう。
日米の通商交渉をにらみ、米国の貿易赤字削減に協力する姿勢をアピールする狙いもありそうだ。しかし、軍拡競争や地域の不安定化につながりかねない兵器の大量購入で、トランプ氏の歓心を買うような振る舞いは、およそ見識を欠く。
見過ごせないのは、米政府から直接兵器を買う有償軍事援助(FMS)が、安倍政権で急増していることだ。来年度は過去最大の7013億円。今年度に比べ、一気に3千億円近く増えた。政権発足前の12年度の1380億円の約5倍となる。
こうした高額な兵器の代金は、複数年にわたって分割払いされる。後年度負担は将来の予算を圧迫し、なし崩し的な防衛費増につながる恐れがある。来年度の契約に基づき、20年度以降に支払われる後年度負担は2兆5781億円。実に年間の防衛予算の半分に迫る規模だ。
中期防は、次の5年間の防衛費を27兆4700億円程度とした。効率化、合理化を徹底することで2兆円を節減し、実際に投じる額は25兆5千億円程度を「目途とする」としている。
ただ、あくまで「目途」とされており、枠をはめたものではない。ほんとうに実現できるのか疑わしい。
厳しい財政事情の下、費用対効果を見極め、優先順位をつける必要性は、防衛費といえども変わらない。歯止めなき予算増は、とても持続可能な防衛政策とは思えない。米兵器の大量購入は将来に重いツケを残すことを忘れてはならない。

(余録)道鏡事件とは… - 毎日新聞(2018年12月23日)

https://mainichi.jp/articles/20181223/ddm/001/070/121000c
http://archive.today/2018.12.23-005352/https://mainichi.jp/articles/20181223/ddm/001/070/121000c

道鏡(どうきょう)事件とは奈良時代後半、僧侶の道鏡皇位の座につくことを勧めた神託をめぐるスキャンダルである。大分県の宇佐八幡に赴き、神託が偽りだと証明した和気清麻呂(わけのきよまろ)は、今も皇居近くに銅像が建つ。
実は、初めに宇佐八幡派遣を命じられたのは姉の広虫(ひろむし)だった。政変や争乱で親を亡くした多数の子どもを広虫は保護していた。すでに40歳近く、長旅は難しいため弟の清麻呂に大役を譲った。
道鏡の怒りを買って清麻呂大隅国(鹿児島県)、広虫備後国広島県)へ流されたが、桓武(かんむ)天皇の下で復権する。清麻呂長岡京平安京遷都に活躍した。広虫は自宅で孤児たちの世話をして天寿を全うした。これが日本初の孤児院とされる。
現在、児童養護施設は全国に600以上あり、3万人を超える子どもが暮らす。最近は親から虐待された子が多い。プライバシーのない集団生活、職員による体罰、子ども同士の暴力など課題は山積している。大学進学率も低く、貧困から抜け出せない人が多い。
朗報と言えるのは、養護施設出身の学生を対象に学費の無料化や奨学金の給付をする私大が増えてきたことだ。青山学院大は施設出身者に限定した推薦入試枠を今年度から設けた。合格すると学費が4年間無料になり、月10万円の奨学金が給付される。
広虫は孤児を自らの戸籍に組み入れた人でもあった。日本初の養子縁組制度だ。こちらの方は1200年たった今もなかなか増えない。古代に生きた慈愛の人を見ならうべきであろう。

高校教師の与那嶺緑さん 米国で辺野古移設を授業に - 琉球新報(2018年12月23日)

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-852869.html
https://megalodon.jp/2018-1223-0958-59/https://ryukyushimpo.jp:443/news/entry-852869.html

オレゴン州ポートランド在住で、高校の社会科教員をしている与那嶺緑(もえ)さん(40)=那覇市出身=は、教科書やマスメディアに取り上げられない沖縄の歴史や米軍基地の現状を生徒たちに伝えたり、ウェブ上に記事を発信したりしている。「ウチナーンチュの知恵と抵抗の歴史を若い人たちに伝え、世界の将来をどう変えていけるのか、一緒に考えていきたい」と、冬休み中に、名護市辺野古の新基地建設問題についてのカリキュラムも作り、他の教員らと共有して教えていこうと取り組んでいる。
与那嶺さんは7歳の時、母の大学院進学に伴って米国へ移り住んだ。毎年、夏休みには沖縄に帰り、弁護士の祖父、茂才(もさい)さんから沖縄戦の悲惨さや亡くなった親族の話、米統治下の様子などを聞いて育った。
勤務先では米国の歴史を教える。多様な人種、ルーツの生徒が集まる「国連のような教室」で、先住民族の土地や権利などの話とともに沖縄の話をすると、黒人やヒスパニック、ネーティブアメリカン、太平洋諸島にルーツのある生徒たちから「自分たちと似ている」と声が上がるという。
今年8月には、長女海椰(かいや)さん(16)と辺野古ゲート前の抗議活動に参加した。炎天下で抗議を続ける戦争体験者のお年寄りたちが、機動隊に排除されていく。その前をトラックが次々と基地内に入っていく光景に涙が込み上げた。お年寄りがそっと寄り添い、「ここでは泣かないよ。おばあも、おうち帰ってから泣くから今は頑張ろうね」と与那嶺さんの手をぎゅっと握りしめた。
「悲惨な戦争を経験したお年寄りたちが命を懸けて座り込んでいる。ウチナーンチュは、ちゅーばー(強い)。まだまだ頑張れる。一緒に闘い、世界に見てほしい」
政府の土砂投入に、胸がかきむしられる思いだが、「私たちのような普通の人たちが立ち上がることで、政治を、社会を変えていける」と話す。(座波幸代ワシントン特派員)

木村草太の憲法の新手(94)辺野古での土砂投入 国の違法行為、全国に危機 - 沖縄タイムス(2018年12月23日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/362924
https://megalodon.jp/2018-1223-0954-05/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/362924

12月14日、防衛省沖縄防衛局は、辺野古での土砂投入に着手した。土砂投入に批判の声は強く、法的にも重大な問題がある。
今年9月31日、県は辺野古埋め立てのための公有水面埋立承認処分を正式に撤回した。7月に撤回を表明した記者会見で、翁長雄志前知事が示した撤回理由は、次のようなものだ。
まず、公有水面埋立法4条1項2号は、埋立承認条件として、「環境保全及災害防止ニ付十分配慮」されたものであることを求める。これを受け、埋め立て承認には、事前に実施設計・環境保全対策の協議を行うとの留意事項が付されていた。
しかし、「沖縄防衛局は、全体の実施設計や環境保全対策を示すこともなく公有水面埋め立て工事に着工し、また、サンゴ類を事前に移植することなく工事に着工するなど、承認を得ないで環境保全図書の記載等と異なる方法で工事を実施しており、留意事項で定められた事業者の義務に違反」した。
また、C護岸(水の浸食を防ぐ工作物)の設置箇所に軟弱地盤があり倒壊の恐れがある。さらに、17年6月6日、稲田朋美防衛大臣(当時)は、国会答弁で、仮に埋め立てが完成しても、滑走路の長さの関係で、もろもろの調整が整わない限り普天間飛行場が返還されない可能性があることを認めた。
これに対し、防衛省は、行政不服審査の手続きに則り、国土交通省に撤回の効力停止を求めた。今年10月30日、石井啓一国土交通相は、普天間返還が遅れるなどの理由で、効力停止を決定した。
しかし、そもそも普天間が返還されない可能性が指摘されているのだから、撤回無効の理由は説得的でない。さらに、行政不服審査は、「国民が簡易迅速かつ公正な」不服申し立てをするための制度(行政不服審査法1条)であり、「国の機関」が「その固有の資格」において受ける処分には適用されない(同法7条2項)。この点は、著名な行政法学者たちが、「公有水面埋立法における国に対する公有水面の埋立承認制度は」「国の法令順守を信頼あるいは期待して、国に特別な法的地位を認めるもの」として、「一般私人と同様の立場で審査請求や執行停止申し立てを行うことは許されない」と強く非難する声明を出している。
このように現時点での土砂投入は違法行為だ。玉城デニー知事が、「工事の権限のない者によって違法に投入された土砂は、当然に原状回復されなければなりません」と言うのも当然だろう。
全国世論調査では、辺野古基地建設について賛否拮抗(きっこう)の状況が続いてきたが、今回の土砂投入には反対の声が強い。共同通信の15、16日の調査では、土砂投入について、支持が35・5%に対し、不支持は56・5%に上った。これまで漠然と政府方針に賛成していた人の中で、土砂投入の現場写真などを見て、何が行われようとしているのかをリアルに考える人が出てきたということだろう。
大浦湾の良好な環境や生態系の維持は、沖縄のみならず、日本全体にとっての公共的な価値がある。また、地方の意思を無視して基地建設が強行された前例を作ることは、全国の自治体にとって脅威である。
今回の土砂投入は、沖縄だけではなく、全国民にとっての危機だ。(首都大学東京教授、憲法学者

(ハンセン病家族訴訟)被害に向き合う判断を - 沖縄タイムス(2018年12月23日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/362912
https://megalodon.jp/2018-1223-0956-23/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/362912

お使いに行った雑貨屋で「あんたには売らん」と買い物を拒否された。
同級生から「風上に行くな、菌がうつる」といじめに遭った。
母親が元患者だと打ち明けると、理由も告げずに離婚を切り出された。 
親がハンセン病だったことで、苦難の人生を歩んできた県内に住む家族の声である。時に隔離されている患者本人より過酷な差別もあったといい、胸をえぐられるような思いがした。
ハンセン病の強制隔離政策を巡って、元患者の家族が国に謝罪と損害賠償を求めた訴訟が、熊本地裁で結審した。患者だけでなく配偶者や子どもらも差別と偏見にさらされたとする集団訴訟で、原告のうち4割が沖縄在住である。
ハンセン病は戦後間もなく薬で治るようになったが、隔離政策は1996年の「らい予防法」廃止まで90年近く続いた。元患者らが国家賠償を求めた2001年の熊本地裁判決は、隔離を違憲と判断。国は元患者と和解し、各種の補償制度を整備した。しかし同様に被害を受けた家族へ目が向けられることはなかった。
家族はなぜ、理不尽な仕打ちを受けなければならなかったのか。
家の中が真っ白になるまで消毒されたり、子どもを「未感染児童」として療養所内の保育所に収容するなど、原告らの意見陳述で明らかになったのは、隔離政策の対象が家族にまで及んでいたということだ。
隔離が助長した偏見によって学校や地域から排除され、結婚や就職などの場面で厳しい差別に直面したのである。

    ■    ■

原告側は家族被害をもたらした国の責任を追及している。
これに対し国は「家族は隔離政策の対象ではなく、国に偏見や差別を取り除く義務はなかった」と反論。仮に被害があったとしても、国と元患者の遺族らが和解した02年時点から3年以上経過し、民法の規定で賠償請求権は消滅したとしている。
原告の中には、これまで誰にも話せなかった被害を心を奮い立たせて告白したという人も多い。
「幼くして家族と引き離され、本当の意味での親子としての関係が築けなかった。あるべき家族の関係性が根本から奪われてしまった」など、その訴えは具体的で重い。
国に差別排除の義務はなかったとの反論は、苦難を強いられた歴史から目を背けるものだ。

    ■    ■

原告のほとんどは本名を明らかにしていない。原告番号で特定される匿名裁判を選ばざるを得なかったのは、いまだに被害が続いているからでもある。
国が社会の偏見をなくす対策もとらずに、請求権の消滅を主張することは許されない。
01年の熊本地裁判決は、「らい予防法」の改廃を怠った国の怠慢を指摘する画期的な内容だった。
司法には再び深刻な人権侵害の歴史に向き合い、国の責任を明確にしてもらいたい。

明仁天皇“最後の誕生日会見”は明らかに安倍政権への牽制だった! 反戦を訴え、涙声で「沖縄に寄り添う」と宣言 - litera(2018年12月23日)

https://lite-ra.com/2018/12/post-4445.html

平和と反戦を語り「正しく伝えることが大切」と歴史修正主義の動きを戒め

踏み込んだのは沖縄問題だけではない。会見では時間をかけて平和と反戦への思いを語ったのだが、そのなかには、安倍政権が扇動している歴史修正主義に釘を刺すくだりもあった。
前述した沖縄への言及の直後、明仁天皇は「そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず……」と述べ、一層力を込めながらこう続けたのだ。

「……戦後生まれの人々にも、このことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」
日本は戦後、戦争によって直接的に人を殺すことも殺されることもなく、平成の時代を終えようとしている。だが、それを継続していくには、戦争の加害と被害の記憶を継承するのみならず、「正しく伝えていくことが大切」と諭したのである。
周知の通り、安倍首相は慰安婦問題や南京事件など戦時中の国家犯罪を打ち消そうとする動きを加速させ、歴史教育に対する介入を強めてきた。明仁天皇が、戦争の歴史を、単に「伝えていく」というのではなく、あえて一歩踏み込んで「“正しく”伝えていく」と形容したのは、こうした安倍首相による歴史修正へのカウンターとしか思えない。

平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵 天皇陛下85歳 - 東京新聞(2018年12月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018122390071210.html
https://megalodon.jp/2018-1223-1105-47/www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018122390071210.html

天皇陛下は二十三日、八十五歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見に臨み、戦争と戦後日本の歩みを振り返りながら「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」と、平和が続いていることへの率直な心情を吐露した。 (小松田健一)
陛下は来年四月三十日に退位して上皇となった後は、全ての公務を新天皇の皇太子さまに譲るため、誕生日会見は今回が最後。平和希求への思いや、長年にわたって陛下を支えた皇后さまについて語ったときは、声を震わせる場面もあった。会見では、自らの天皇在位や人生を旅に例え、「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と、国民に謝意を示した。
来年四月に皇后さまとの結婚から六十年を迎えるに当たっては「私の人生の旅に加わり、六十年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心からねぎらいたく思います」と語った。
戦後に米国から返還された奄美群島(鹿児島県)、小笠原諸島(東京都)、沖縄県にも言及。「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と強調した。日本で働く外国人の増加にも触れて「社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べ、多文化が共生する社会を望んだ。
次の天皇となる皇太子さまと皇嗣(こうし)となる秋篠宮さまには「共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」と新時代の皇室に期待を寄せた。

◆沖縄へ 皇后さまへ 声震わせ

沖縄や平和、困難な状況にある人々への思い、そして皇后さまへの感謝。陛下は、こみ上げるものを抑えつつ、何度も声を震わせながら語られた。時間にして約十六分間。会見場の皇居・宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」は、静寂の中に陛下の声が響いた。
「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を…寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」
記者団の質問に対する答えを記した紙を穏やかに読み上げていた陛下。最初に声がくぐもったのは、沖縄について触れたときだ。太平洋戦争末期の地上戦で大きな被害を受けた沖縄を皇太子時代から皇后さまとともに十一回訪れ、戦没者の慰霊や県民との交流を続けてきた。
戦争の記憶の継承に話を進め「戦後の平和と繁栄が」と言いかけ、「このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず」との言葉を継ごうとする間に再び声を震わせ、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」と結んだときは、涙声に聞こえた。
大規模災害の被害への悲しみを語り、その中でのボランティアなど国民の助け合いの心が生まれたことに触れた際、声は再び震える。涙は見えなかったが、語るにつれあふれ出た思い。これらの事柄は象徴として特に心を寄せたことと重なり、その思いの深さをうかがわせる。
陛下が記者会見で感極まることはこれまでもあり、二〇〇九年の結婚五十年の記者会見でも感謝の気持ちを口にされ、声を震わせた。今回、最も感情の高ぶりを感じさせたのは、国民への感謝とともに皇后さまへの感謝を「自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わってくれた」と話したときだった。
幼少期から知る学友の一人が本紙の取材に、陛下の人柄を「結構、熱いところがある」と評したことがある。側近は「ご自分が触れたいと思ったことを心を込めてお話しになったので、これまでのさまざまな出来事が胸に去来したのだろう」と推し量った。 (荘加卓嗣)

陛下、声震わせ「象徴の旅」を回顧 最後の記者会見全文 - 日本経済新聞(2018年12月23日)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39242340R21C18A2000000/
http://archive.today/2018.12.23-014730/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39242340R21C18A2000000/

天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見。即位後の30年を旅になぞらえて何度も声を震わせながら、象徴としての在り方や平和への思い、国民や皇后さまへの感謝を述べられた。2019年4月の退位を控え、在位中の記者会見は今回が最後となる見通し。発言全文は以下の通り。

憲法が定める「国民統合の象徴」として初めて即位された天皇陛下。その在り方を追い求め、災害など困難に直面する国民に心を寄せ続けられてきた。
(陛下)この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年(1959年)、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
11歳の時に疎開先で終戦を迎えた天皇陛下は即位後、国内外の激戦地を訪ね、「慰霊の旅」を重ねられた。平和が続いた戦後日本に思いをいたされた。
(陛下)第2次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年(89年)の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年(52年)、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス2世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。
それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年(53年)に奄美群島の復帰が、昭和43年(68年)に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年(72年)に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
そして、戦後60年サイパン島を、戦後70年にパラオペリリュー島を、さらにその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
「平成」は多くの自然災害に見舞われた時代だった。天皇陛下は皇后さまとともに何度も被災地を訪問。被災者らと悲しみや希望を共にされてきた。
(陛下)次に心に残るのは災害のことです。平成3年(91年)の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年(93年)の北海道南西沖地震奥尻島津波被害に始まり、平成7年(95年)の阪神・淡路大震災平成23年(11年)の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動をはじめ様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気づけられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害者をはじめ困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
天皇陛下は即位後に36カ国を訪問し、各国で活躍する日系人とも熱心に交流された。国を越えて人の行き来が盛んになる中、人的交流を通じた友好関係の促進を願われた。
(陛下)今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
天皇、皇后両陛下はまもなく結婚60年の節目も迎えられる。天皇陛下は「天皇としての旅」を共にした皇后さまをねぎらい、代替わり後の新しい時代に期待を込められた。
(陛下)明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇をはじめ私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来(じらい)この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。

天皇陛下「国民に感謝」85歳の誕生日で天皇として最後の会見