夏休み思い出クルーズ出航 都職員、施設の子ら視察船招待 - (2017年8月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082202000243.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0945-53/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082202000243.html

虐待を受けたなどの事情から、夏休み中もずっと児童養護施設で過ごす子供たちがいる。家族との楽しい時間も、旅行の機会もない。そんな現状を知った東京都の女性職員の発案で、都の視察船を使って子供たちを東京湾の遊覧に招待している。招待を始めて三年。今年も子供たちは笑顔で船に乗り、楽しいひとときを過ごした。 (木原育子、森川清志)
都港湾局のロッカーに、大切に保管されている手紙がある。「ふねからのけしきはすごくきれいで、すてきでした」「初めて船に乗れて楽しかった」。幼い字で一生懸命に書かれたお礼の手紙には、船の絵を描いたり、お気に入りのシールが貼られていたり。
視察船への招待を発案したのは、都職員の浜佳葉子(かよこ)さん(55)。「施設に帰った後も、思い出しながら書いてくれたんだと思うとうれしい」と表情を緩めた。
浜さんは二〇一三年から一年間、少子社会対策部長として虐待の問題などに向き合った。施設や養育(里親)家庭にたどり着くまで、さまざまに傷ついた子供たち。「行政にできることって何だろう」と悩んだ日々を振り返る。
そんな時、施設職員から「夏休みに家へ帰れない子もいる。博物館とかに無料で招待してもらえるとありがたい」という話を聞いた。その後、港湾局総務部長に異動し、視察船「新東京丸」の活用を思いついた。
ただ、要人の視察時などに使う新東京丸は都民も乗船できるが、十五歳以上に限定していた。一年ほどかけて規則を変え、乗船希望者を募って一五年の夏休みに試行した。
一六年からは養育家庭も招待し、三年間で計約三百人が遊覧を楽しんだ。「いろんな大人があなたのことを大事に思っている」。今、都選挙管理委員会事務局長の浜さんは、そんなメッセージが伝わればと願っている。

◆里親にも「特別な時間」
八月上旬、養育(里親)家庭の了承を得て、視察船に同乗させてもらった。子供たちのはしゃぐ姿が印象的だった。
四組十三人の家族が乗り、竹芝桟橋(港区)から、一時間余りかけ、レインボーブリッジなどを見て青海(江東区)で下船した。
「見て見てママ、パパ。あんなに大きな船が横切っていく」。船内で中学二年の女子(14)が歓声をあげると、母(58)と父(60)が笑顔を見せた。
女子が二歳の時、里親になった。中学進学時、児童福祉法の規定により「十八歳になると一緒に暮らせなくなる」と伝えた。以来、女の子は感情的になったり、ちょっとしたことで不安になったりするという。夫婦は「葛藤があるんだと思う。だから、こういう家族の特別な時間は忘れられない思い出になる」と話した。 (木原育子)

暮らし<家族が欲しくて>(1)非情の通告 なぜ?「母子隔離」 - 東京新聞(2017年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081602000185.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0946-38/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081602000185.html

家族に恵まれない不遇な生い立ちゆえに、未婚であってもあえて出産する女性が増えている。二十歳前後で目立ち、最近の調査によると、十代で出産する女性のうち未婚の割合は約三割に上る。精神的な負担や経済的な困難を抱えてでも産む理由を「家族が欲しいから」と答える人が多いという。二十歳で妊娠した女性と、彼女の出産、育児を支える人たちを追った。 (芳賀美幸)
すやすやと眠る息子に、美咲さん(21)=仮名=はスマートフォンのカメラを向けた。生後三カ月。スマホに保存された数十枚の写真が、一日、一日と成長していく息子の姿を記録している。お気に入りの一枚は、市派遣のホームヘルパーの女性が撮ってくれた。
「赤ちゃんの笑顔って筋肉の条件反射なんですって。そうと分かっていても、笑顔を見るとうれしい」
写真にこだわる理由がある。「私が赤ちゃんの時の写真ってほとんどない。だから、たくさん残してあげたくて」。両親に生活能力がなく、五歳の時に二つ下の妹と児童養護施設に預けられた。その後、両親は離婚し別々の家庭を持ったため、今も帰る家がない。
「友達には帰る家や家族が当たり前にあるのに、自分にはないことがずっとつらかった」
十五歳で施設を出た後、居場所を求めて援助交際や非行に手を染め、女子少年院に二度入った。少年院を出て、一カ月だけ付き合った交際相手と別れた後に、妊娠がわかった。その相手とは音信不通。周囲の人には「育てられない」と出産を反対された。
施設の職員に「もし育てられなかったら、子どもがどんなに寂しい思いをするかは、あなたがよく知っているでしょう」と言われた時、反発する気持ちが湧き上がった。「私は親に育ててもらえなかったけど、生きてて楽しいこともたくさんあった。自分のことを不幸だなんて思っていない」。逆に決意が固くなった。
「家族」を心待ちにしていたある日、医師から衝撃の通告を受けた。「出産後、子どもとは別々になるって、聞いてるかな」。何も聞かされていなかった。気分の変動が激しい「双極性スペクトラム」の診断を受けていた上に生活状況への不安から、児童相談所(児相)が出産後、子どもを隔離して「保護」することを決めている、と知った。
「何のために、悪い友達とも縁を切って頑張ってきたのか。一人で家にいて寂しくても耐えられたのは、おなかにいる子どもに会うため。会ったこともない人たちに決められたくない」
臨月の美咲さんから、電話で泣きながら訴えられた私も驚いた。昨年末、非行少年の支援団体を通じて彼女を知り、取材を重ねてきた。初めて「自分の家族」を持ち、人生の再出発にかける思いと彼女なりの努力を知るだけに、いたたまれない気持ちになった。
そのころ、市の福祉窓口の相談員の女性(48)が、私と同じように「保護」を決めた児相の判断に疑問を持ち、撤回を掛け合っていた。
「たとえ業務時間外でも彼女の家に泊まるぐらいの覚悟がある!」
強い口調で訴えた後、涙があふれてきたという。「妊娠後の美咲をずっと見てきて、彼女なら、という思いがあった。私たちは『できない』ではなく『できる』可能性に希望を見たい」。ヘルパー派遣など福祉サービスの利用計画を考える相談支援専門員の女性(34)も声を上げ、児相は「保護」を見直す検討を始めた。

暮らし<家族が欲しくて>(2)直談判 母になる覚悟胸に - 東京新聞(2017年8月17日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081702000209.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0947-23/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081702000209.html

「美咲なら、ちゃんと子育てを頑張れる」。妊娠前から美咲さん(21)=仮名=を知る市の福祉窓口の相談員の女性(48)は、児童相談所との会議で訴えた。
ヘルパー派遣など福祉サービスの利用計画を考える相談支援専門員の女性(34)も、神経質なほど胎児を気にかけ体調の相談をしてきた美咲さんを見て「美咲ならできる」と思っていた。「母親の手料理を食べたことがないから、自分の子には」と美咲さんが料理に励んでいることも知っていた。
「私だってやればできるんだから」。希望が彼女を成長させる日々を見詰めてきただけに、母子を引き離す児相の方針には、胸が締め付けられた。「育児グッズを買いに行きたいから一緒にきて」。そう頼まれたとき「忙しいから、またね」と断った。「買っても無駄になっちゃうかもしれないんだよ」。心でつぶやくと、切なかった。
児相は「出産への影響に配慮」し、美咲さんには知らせないまま、出産後に子どもを保護する方針だった。担当の医師に聞かされショックを受けた美咲さんは、相談員の女性の前で「子どもをとられたら私、何をしでかすかわからない」と口走った。
美咲さんは取材中によく「大人は何か問題を起こさないと動いてくれない」と話していた。守ってくれる親がいない自分が助けを求める最後の手段。周囲を困らせた非行にも、そんな一面がある。それがとっさに出てしまった。
「何言っているの!」。相談員の女性はそんな美咲さんを容赦なく一喝した。「その一言が“やっぱり変わってない”と思わせるんだ。私たちは今、美咲のために闘ってる。信用できないの?」。しゅんとして美咲さんがつぶやいた。
「今まで会ってきた大人とは違うと思ってる」
美咲さんは意を決して自ら児相に電話し「私の話も聞かないで決めないでほしい」と訴えた。児相側も面談を受け入れた。
数日後、取材で訪ねた私を美咲さんが待ち構えていた。「周りから見たらまだまだ未熟だけど、私なりに変わろうと努力してきた。それを児相にも伝えたい。どう伝えたらいいか、一緒に整理してもらえませんか」。非行仲間と距離を置いたこと、授乳の練習をし、沐浴(もくよく)の勉強をしていること…。一つ一つ、丁寧な字でノートに書いていった。「ひらがなばかりだと幼稚に思われるから」と、時折スマートフォンで漢字を調べながら。
児相と面談の日。「赤ちゃんにミルクをあげるために二時間おきに起きられる?」。女性職員の問いに美咲さんは「やってみないと大変さはわからないから、簡単にできるなんて言えない」と正直に答えた。「困ったらヘルパーさんに相談しながら解決したい」。面談の終わりに「この話し合い、私にとってプラスになったでしょうか」と聞いてみた。「かなりプラスになったと思います」という言葉が返ってきた。
後日、職員は取材に「会う前は、反発してくると予想していたが、むしろ『自分も母親になるから』と落ち着いた態度で、子どもが引き離されることを心から悲しんでいる様子が印象的だった」と話した。
そのころ、相談支援専門員の女性は、美咲さんの父方の祖母に育児への協力を得ようと奔走していた。身内の手助けが、児相を説得するカギだと思っていた。
 (芳賀美幸)

暮らし<家族が欲しくて>(3)育児への協力  頭下げ、祖母に頼む - 東京新聞(2017年8月18日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081802000176.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0948-10/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017081802000176.html

子どもを保護するという児童相談所をどうしたら説得することができるのか。ヘルパー派遣などの支援計画を考える相談支援専門員(34)と市の福祉窓口の相談員(48)の女性二人が相談した結論は「父方の祖父母に支援を頼む」だった。
ただ、簡単ではなさそうだった。美咲さん(21)=仮名=に関する市などの資料には祖父母について「家族の育児への協力は期待できない」と書かれていた。さらに、美咲さん自身も「どうせ頼んでも応じてくれないと思う」と後ろ向きだった。
美咲さんは二回目の少年院を出院した十九歳のころ、祖父母と一時的に同居していた。「午後五時には家に帰ってきなさい」「携帯電話は使っちゃだめ」。しつけに厳しい祖母に耐えきれなかった。「おばあちゃんは私をわかってくれない」。家を飛び出し、夜の街に戻った。
専門員の女性は繰り返し言って聞かせた。「反発する気持ちもあると思うけど、子どものためを思うなら我慢を覚えなきゃ」。女性自身、子育ての真っ最中だった。「子育ては、あなたが考えているよりすごく大変で、おばあちゃんの協力なしでは難しいよ」。女性は美咲さんとともに、祖父母宅を訪れた。
「だから、言ったでしょう。育てられないならおろしなさいって」「あんたには散々、迷惑をかけられた」。祖母は厳しい言葉を浴びせた。美咲さんは反発する気持ちを抑え、「お願いします」と頭を下げた。生まれてくる子どものため、と思い、何を言われても我慢した。
一方で、祖母にもおなかの中のひ孫を思う気持ちがあった。妊娠を伝え聞いたときからこの日がくるのを想定し、赤ちゃんのために禁煙していた。専門員の女性から連絡を受ける前から「私がやるしかない」と覚悟を決めていたという。
祖母と孫、二人の橋渡しをした専門員の女性は「美咲も祖母が自分のことを思ってくれているのは感じつつも、うまく付き合えない部分があった。第三者が入ることで、うまく話が進んだと思う」と胸をなで下ろした。
児童相談所も、祖母の協力を高く評価し、保護の方針を見直す決定をした。
もともと子どもを隔離して保護する方針は、市の保健師からの「養育能力に不安がある」との報告、障害の診断、若年出産などが理由だった。本人と面談した職員は「以前に彼女と会って、人懐っこい性格なので困った時は誰かの助けを呼べるし大丈夫かなと感じたが、リスクがあるのも事実なので、保護の方針になった」と経緯を明かし、変更についてはこう言った。
「面談時の本人の態度、ヘルパーさんの口添え、何よりおばあちゃんの支援の見通しが立ったことが大きかった」
祖母から支援を受けて育児が始まったころ、美咲さんに、祖母に取材できないか尋ねると「私が取材されるのは反対してないけど」と言いにくそうに続けた。
「おばあちゃんは嫌がると思う。今の生活はすべておばあちゃんの考えに合わせて、私が我慢することで成り立っているから難しいです」
祖母の厳しい口調は今も少し苦手だ。育児方針の違いで衝突することもある。それでも、祖母との間で不要な波風を立ててはいけない。そんな彼女なりの、細心の気遣いが伝わってきた。 (芳賀美幸)

暮らし<家族が欲しくて>(4)妹がママ友 「家族は4人」強い絆 - 東京新聞(2017年8月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017082302000173.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0948-54/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017082302000173.html

育児の協力をとりつけたものの、祖母と折り合うのは難しかった。ある日、祖母が口をつけたスプーンで離乳食を食べさせるのを見て、美咲さん(21)=仮名=は「保健師さんが虫歯菌がうつるって言ってたよ」と言ったが、「そんなの大丈夫」。世話になる身で逆らえなかった。
頼れるのは未婚で二カ月早く出産した妹(18)だった。「添い寝しながらの授乳って、どうやるの?」「赤ちゃんがちゃんと息ができるように頭の高さに気を付けて…」。LINE(ライン)のビデオ通話で妹が実演してくれた。
「妹が生後五カ月で始めたから」。離乳食を始めた美咲さんを、相談支援専門員の女性(34)は「お互いが支えになっている」とほほ笑ましく思う。
幼いころのかすかな記憶の中で、母はいつも布団に隠れてシンナーを吸っていた。五歳と三歳で預けられた児童養護施設では、いじめや暴力もあった。それがつらくて、美咲さんは妹を連れて何度も脱走した。だが、祖母の家を訪ねて訴えても「我慢しなさい」と言われて戻された。
母は時々ろれつの回らない状態で施設に電話してきた。学校の授業参観や運動会は「来る」と言っても当日は姿を見せなかった。他の子らが一時帰宅する年末年始もよく姉妹で残った。

当時を知る施設長によると、職員が帰省時に連れ帰ったり、身銭で進学支援するケースもあったが、姉妹に手を差し伸べる人はいなかった。施設長は「精神的、経済的に守られる子たちは行くべき道を見失わない」と語る一方、施設を出て人生に行き詰まる子どもを何人も見てきた。
十五歳で施設を飛び出した美咲さんは非行を繰り返し、女子少年院に二度入った。「他の子と『差別されてる』と感じ、悪い仲間に流されたとすれば、僕たちの力不足もあった」と施設長は話す。
二度目の少年院を十九歳で出た美咲さんを、妹は首を長くして待っていた。「ねね(姉)と一緒に暮らしたい」。妹は再婚した母の家にいたが、自分の居場所はなかったという。
母のもとを離れ、二人で暮らし始めた当初、妹は精神的に不安定だった。母親を含め、人間関係に悩んでいる様子だった。民間の支援者に当時、美咲さんから度々SOSが届いている。「妹の体調が悪く、病院にいる」「妹が援助交際している」「所持金が五百円しかない」。だが、いつも連絡は中途半端に途絶え、手助けできなかった。
美咲さんは「少年院を出て工場と飲食店で二週間ずつくらい働いたけど、妹が不安定で仕事どころではなかった」と振り返る。そんなある日、妹が自殺を図った。一命を取り留めた妹に美咲さんは、面と向かっては言えなかった思いの丈をラインで伝えた。
「お母さんとは、違うから何度も言っとるけどうちが誰よりも大切なのは、○○だから」。妹から返信が届いた。「ありがとう なきそうだわ」。その時のやりとりを妹は今も大切に保存している。
未成年の妹は出産後、母子生活支援施設(旧母子寮)に入り、施設の方針で、最近、職探しを始めた。その妹を見て、美咲さんも「来年からは息子を保育園に預けて働き始めたい」と相談員の女性らと話している。
「昔はねねがたった一人の家族だったけど、今は四人家族だね」
離れ離れに暮らす姉妹は、かつて以上に強い絆で結ばれている。 (芳賀美幸)

<前回まで> 5歳の時、児童養護施設に預けられ、少年院に2度入るなど荒れた10代を送った美咲さん(仮名)は20歳で妊娠。彼氏とは音信不通だが「家族を持ちたい」と出産を決意した。児童相談所(児相)は出産後に子どもを保護する方針だったが、支援者の働きかけで祖母が育児に協力し、母子の生活が始まる。

政治と世論を考える<3> 輿論と世論の違いは? - 東京新聞(2017年8月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017082302000149.html
https://megalodon.jp/2017-0823-0949-45/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017082302000149.html

「世論」と書いて、「よろん」と発音する人もいるし、「せろん」と発音する人もいる。
京都大学佐藤卓己教授によれば、一九八〇年の調査では「せろん」と読む人が過半数だったが、それから約十年後には逆転して、「よろん」が六割を占めているのだという。偶然ではない。
「戦前に教育を受けた世代と戦後の世代で多数派が交代した結果なのです」(佐藤教授)
輿論(よろん)」とは「天下の公論」であり、「世論」は明治時代の新語で、大正時代の辞書では「外道の言論、悪論」と書かれているそうだ。だから、戦前に教育を受けた世代が「世論」を「よろん」と読むことはありえないのである。
軍人勅諭にもこんなくだりがある。「世論に惑は(わ)ず政治に拘(かかわ)らず」−。この場合も「世論」が「外道の言論」なのだからであろう。
戦後、当用漢字表から「輿」の文字が除外され、「よろん」に「世論」の字が当てられるようになり、「よろん派」「せろん派」の二派が登場することになる。
では、新聞社が行う世論調査は、「せろん派」で世の中の空気を読むだけの国民感情調査なのだろうか。それとも「よろん派」で、責任ある意見をくみ取る調査なのだろうか。この判定は場合にもよるが、どちらとも言い難い。
専修大学山田健太教授は「欧米では社会の階層ごとに読む新聞が違っています。例えば英国ならば上の層ではガーディアン紙、下の層ではイエローペーパーでしょう。しかし、日本の場合は違います。どんな市民でも読むメディアの差はありません」という。
確かにサラリーマンでも、大学教授でも読んでいる新聞は、ほぼ同様のものであり、メディアの質そのものに大きな違いがない。お年寄りも老眼鏡を頼りにじっくり記事や社説を読む。
「日本の読者は、新聞を読んで、知識を蓄えているわけで、新聞社の行う世論調査がたんなる『国民感情調査』に陥っているわけではないと思います。知識を持ち、意見を持った『輿論調査』の面もあると思うのです」
「世論に問う」−。難しい政治テーマについて、こんな言葉を政治家がいう時代になっている。例えば劇場型政治がそうだ。賛成・反対で社会分断を図る。単純な言葉で世論を動かそうとする政治手法にメディアがどう対抗できるか問われる時代でもある。