暮らし<家族が欲しくて>(4)妹がママ友 「家族は4人」強い絆 - 東京新聞(2017年8月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201708/CK2017082302000173.html
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育児の協力をとりつけたものの、祖母と折り合うのは難しかった。ある日、祖母が口をつけたスプーンで離乳食を食べさせるのを見て、美咲さん(21)=仮名=は「保健師さんが虫歯菌がうつるって言ってたよ」と言ったが、「そんなの大丈夫」。世話になる身で逆らえなかった。
頼れるのは未婚で二カ月早く出産した妹(18)だった。「添い寝しながらの授乳って、どうやるの?」「赤ちゃんがちゃんと息ができるように頭の高さに気を付けて…」。LINE(ライン)のビデオ通話で妹が実演してくれた。
「妹が生後五カ月で始めたから」。離乳食を始めた美咲さんを、相談支援専門員の女性(34)は「お互いが支えになっている」とほほ笑ましく思う。
幼いころのかすかな記憶の中で、母はいつも布団に隠れてシンナーを吸っていた。五歳と三歳で預けられた児童養護施設では、いじめや暴力もあった。それがつらくて、美咲さんは妹を連れて何度も脱走した。だが、祖母の家を訪ねて訴えても「我慢しなさい」と言われて戻された。
母は時々ろれつの回らない状態で施設に電話してきた。学校の授業参観や運動会は「来る」と言っても当日は姿を見せなかった。他の子らが一時帰宅する年末年始もよく姉妹で残った。

当時を知る施設長によると、職員が帰省時に連れ帰ったり、身銭で進学支援するケースもあったが、姉妹に手を差し伸べる人はいなかった。施設長は「精神的、経済的に守られる子たちは行くべき道を見失わない」と語る一方、施設を出て人生に行き詰まる子どもを何人も見てきた。
十五歳で施設を飛び出した美咲さんは非行を繰り返し、女子少年院に二度入った。「他の子と『差別されてる』と感じ、悪い仲間に流されたとすれば、僕たちの力不足もあった」と施設長は話す。
二度目の少年院を十九歳で出た美咲さんを、妹は首を長くして待っていた。「ねね(姉)と一緒に暮らしたい」。妹は再婚した母の家にいたが、自分の居場所はなかったという。
母のもとを離れ、二人で暮らし始めた当初、妹は精神的に不安定だった。母親を含め、人間関係に悩んでいる様子だった。民間の支援者に当時、美咲さんから度々SOSが届いている。「妹の体調が悪く、病院にいる」「妹が援助交際している」「所持金が五百円しかない」。だが、いつも連絡は中途半端に途絶え、手助けできなかった。
美咲さんは「少年院を出て工場と飲食店で二週間ずつくらい働いたけど、妹が不安定で仕事どころではなかった」と振り返る。そんなある日、妹が自殺を図った。一命を取り留めた妹に美咲さんは、面と向かっては言えなかった思いの丈をラインで伝えた。
「お母さんとは、違うから何度も言っとるけどうちが誰よりも大切なのは、○○だから」。妹から返信が届いた。「ありがとう なきそうだわ」。その時のやりとりを妹は今も大切に保存している。
未成年の妹は出産後、母子生活支援施設(旧母子寮)に入り、施設の方針で、最近、職探しを始めた。その妹を見て、美咲さんも「来年からは息子を保育園に預けて働き始めたい」と相談員の女性らと話している。
「昔はねねがたった一人の家族だったけど、今は四人家族だね」
離れ離れに暮らす姉妹は、かつて以上に強い絆で結ばれている。 (芳賀美幸)

<前回まで> 5歳の時、児童養護施設に預けられ、少年院に2度入るなど荒れた10代を送った美咲さん(仮名)は20歳で妊娠。彼氏とは音信不通だが「家族を持ちたい」と出産を決意した。児童相談所(児相)は出産後に子どもを保護する方針だったが、支援者の働きかけで祖母が育児に協力し、母子の生活が始まる。