(筆洗) 映画「椿三十郎」に若い侍衆を三船敏郎さんの三十郎が殴りつけ… - 東京新聞(2021年4月4日)

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映画「椿三十郎」に若い侍衆を三船敏郎さんの三十郎が殴りつける場面がある。本気で殴っている。
真冬の撮影だったそうだ。斬られ役は寒さに震え、地面に倒れたまま撮影を待っている。三船さんが腹を立て、芝居にかこつけて本気で殴ったのは撮影直前、侍衆の俳優たちがラーメンを食べていたことだった。「この寒い中、転がっている人間がいるのにお前らだけが!」
映像の中で若いその人も殴られている。俳優の田中邦衛さんが亡くなった。八十八歳。名優をしのぶにはふさわしくない逸話か。
意地の悪いドラ息子の「青大将」、「若者たち」なら意固地な長男。「仁義なき戦い」では卑劣なやくざ。清廉潔白や真実一路とは遠く、少々曲がった人間の役が似合った。
そうした役も田中さんが演じれば魅力にあふれ、共感できる人物になっていた。われわれは弱く、間違いもする。三船さんの小言はもっともだが、自分だけラーメンを食べてしまうことだってある。そういう弱さを抱えながらも生きていく。田中さんの芝居には人間の欠点やずるさまで肯定してくれる魅力があった。
北の国から」の黒板五郎にしても身勝手なところがある。欠点もあるからこそ五郎が純のために必死で用意したドロの付いた一万円札にわれわれは泣いた。お別れにそのドラマのせりふを借りるとする。「父さん。あなたは−すてきです」