(余録)「売れなければ売れるまで、売れれば売れなくなるまで書いてくれ」… - 毎日新聞(2020年12月26日)

https://mainichi.jp/articles/20201226/ddm/001/070/093000c

「売れなければ売れるまで、売れれば売れなくなるまで書いてくれ」。プロダクションの新人歌手の歌をこう依頼したのは石原裕次郎(いしはら・ゆうじろう)だった。なかにし礼(れい)さんが作詞の仕事をするきっかけをくれた大恩人である。
歌手は黛(まゆずみ)ジュンさん。さてと考え込んだが、「ハレルヤ」という歓喜の言葉がひらめいたとたん、絶対にヒットすると確信した。喜びの言葉で失恋を歌う「恋のハレルヤ」は恋が受け身でない今時のアイドルの歌として大ヒットする。
実はなかにしさんが「ハレルヤ」と記した時、心にあったのは8歳の時に見た大連(だいれん)の青い空と海だった。旧満州(現中国東北部)で家族と終戦を迎え、死と隣り合わせの凄絶(せいぜつ)な体験の末に行き着いた引き揚げ船の出発港の光景だった。
「僕の歌は戦争体験の一種の記録なんだ。その最初の作品がこれ」。近年のインタビューでそう語っていたなかにしさんだ。たとえば弘田三枝子ひろた・みえこ)さんの「人形の家」は国に見捨てられた旧満州の日本人の絶望を織り込んだ歌詞という。
「子ども時代の体験を直視することで僕は言葉というものをつかんだ」。平成に入ると小説「長崎ぶらぶら節」での直木賞受賞など文学に活躍の舞台を移したが、旧満州の戦争体験は小説「赤い月」をはじめ作品の底流をなし続けた。
「僕の歌はすべて昭和という時代への愛と恨みの歌です」。戦争で少年の内面に刻まれた心の傷を、時代を代表するヒット曲や文学作品に変えたなかにしさんだ。残すべきものを手渡しての旅立ちである。