[沖縄戦 記憶の継承]非体験者が時代を開く - 沖縄タイムス(2019年6月17日)

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奈良時代の高僧鑑真は、唐から日本へ渡航を試み、6度目で日本にたどり着き、律宗を開いた。その途中で「阿児奈波島」に着いたと、1200年以上前に書かれた鑑真の伝記に記されている

▼読み方は「アコナハ」「オチナハ」などさまざまあるが、これは沖縄島のことだというのが通説だ。地元住民から聞いた地名を音訳したとみられ、「うちなー」を当てたとの説もある
▼「沖縄」の漢字表記が表れるのは、江戸時代に作成された国絵図「琉球国」にある「沖縄嶋」あたりかららしい。新井白石の「南島志」にも「沖縄」の表記がある
▼「沖縄本島」という表記が今のように定着したのはいつからだろう。ちなみに明治時代の琉球新報の紙面ではすでに「沖縄本島」という書き方が通っている
▼先月の県環境影響評価審査会で「沖縄本島」の表記を「沖縄島」にすべきだとの指摘が上がった。「本島」と「離島」の表現は差別だとする問題意識からだ。8月の県振興審議会の離島過疎地域振興部会では、与那国町の外間守吉町長が「離島」を「島しょ」と表記するよう提起していた
琉球王朝時代、王朝からの制圧に抵抗したのは石垣島オヤケアカハチであり、与那国島のサンアイ・イソバだった。島々からの訴えに触れると、「中央と辺境」という構図がヤマトと沖縄の関係だけではないことに改めて気付かされる。