「もう時間がない」傷痍軍人の平均年齢98歳 先細る証言聞き取り - 東京新聞(2018年12月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018120902000131.html
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戦傷病者(傷痍(しょうい)軍人)の史料館「しょうけい館」(東京・九段)は、傷痍軍人の生の声を映像や証言集で公開している。戦中戦後の苦労を聞き取り、後世に伝えようとしているが、傷痍軍人は既に七千人を切り、関係者の特定や経験の伝承が極めて難しくなっている。担当者は「傷痍軍人から話が聞ける、今がぎりぎりの時」と懸命に作業を続ける。七十七年前の一九四一年十二月八日は、太平洋戦争開戦の日。 (加藤行平)
「戦後八十年の二〇二五年には、傷痍軍人は存在していないでしょう」。しょうけい館の木龍(きりゅう)克己学芸課長が語る。同館は、出征兵士の現在の平均年齢を九十八歳、志願・少年兵で九十六歳、軍属で九十四歳と推定している。
日中戦争、太平洋戦争で負傷した軍人、軍属、準軍属は、日本傷痍軍人会の設立時(一九五二年)には約三十五万人いたとされる。戦傷病者特別援護法(六三年公布)で戦傷病者と認定され、手帳の交付を受けた傷痍軍人は、療養手当や葬祭費、補装具の支給などが受けられる。
厚生労働省の福祉行政報告例によると、二〇〇〇年度末に七万二千四百七十六人だった交付者は、毎年数千人規模で減少。昨年度は六千八百七十一人(軍人六千十八人、軍属・準軍属八百五十三人)に減った。
同館は傷痍軍人に関する資料を展示し、傷痍軍人や家族の苦労を伝える事業を続け、本人の承諾を得られれば、DVDなどで映像を公開している。
〇六年の開館時は傷痍軍人本人が来館、証言したこともあった。しかし、日本傷痍軍人会も会員の高齢化で一三年に解散。同館は古い名簿を基に新たな証言者を探している。木龍課長は「最近は百人探しても、聞き取りできるのは一人いるかいないか」と明かす。
傷痍軍人は戦争で手足の欠損や失明など大きな傷を負い、戦後も普段の生活で周囲から冷たい声を浴びた人も多い。木龍課長は「死んだ戦友に、生きて帰って申し訳ないとの思いを今も抱える人もいる。聞き取りに応じた人の多くが、(戦争で負傷するのは)自分を最後にしてほしいと願っている」と語った。

◆にじむ戦争の壮絶体験 東京・九段 しょうけい館
東京・九段のしょうけい館では戦地のジオラマや、義手・義足などの補装具といった資料を展示し、傷痍軍人やその家族らの苦労を紹介している。無料で配布する体験記には、戦争の傷と苦渋がにじみ出ている。
一九四二年に右眼を失った陸軍兵士は「血まみれの顔面に手をやれば、飛び出した目の玉が手のひらに触れた。腰のタオルで目の玉を押し込み止血鉢巻きをした。目の前が真っ暗になり、死の地獄谷に吸い込まれていくので、死力を尽くして死の淵からはい出そうと脱出した悪夢が心に焼きついている」と明かした。
復員後の生活への不安も。「敗戦で荒廃した祖国の現実を目の当たりにして、これからどうすればよいのか、障害の身を思い不安感は募るばかりだった」(四五年、マレーシアで左手を切断した陸軍兵士)
家族にもつらい影を落とした。フィリピン・レイテ湾で右脚を切断した兵士の妻は「軍隊に行くまでは温和な夫でしたが、傷病してからは人が変わった。不自由な体をぶつけるかのように、物を投げるようになった」と打ち明けた。