戦場はむごたらしい 建築家・元海軍士官 池田武邦さん(94) - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000140.html
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太平洋戦争でマリアナ沖、レイテ沖、沖縄海上特攻という三つの海戦を生き延び、戦後は建築家として霞が関ビルの設計に携わった元海軍士官の池田武邦さん(94)=東京都東久留米市終戦記念日に合わせて本紙の取材に応じ、「戦場はむごたらしかった。『壮烈なる戦死』なんて華々しさはなかった」と戦場の凄惨(せいさん)な現実を明かした。
フィリピンのレイテ沖海戦では航海士として乗った軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」が米軍に猛襲され、艦橋が血の海に。「船が揺れるたび床にたまった血が右へ左へと流れる。その生臭さと硝煙のにおいが入り混じる。もげた腕や足はバケツの中に入れられ、死体はすぐ腐敗し、惨憺(さんたん)たるものだった」
沖縄を目指した艦隊特攻で矢矧は戦艦大和とともに撃沈された。顔に大やけどをし、黒い重油の覆う海で漂ううち、不意に「畳の上で横になりたい」と実家が恋しくなった。一家だんらんする茶の間の風景が脳裏に浮かんだと振り返った。
戦前戦中は言論や情報が統制された。「玉砕するのが当然と思い、降伏なんて発想はなかった。考えが偏っていた」。戦後、日本の敗戦理由を検証し、自ら設立した日本設計では、建設に関する情報を集めるシステムをつくり、対等に意見を言い合えるようにした。
自衛隊を明記する九条改憲の動きや、集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法の成立については「命がかかっている問題だから国民の納得できるプロセスが必要。ごまかして進めるのは一番よくない」と考える。そして「あの戦争の歴史が教育の場でしっかり教えられず、犠牲が生かされてない」と訴えた。

<いけだ・たけくに> 1924年、静岡県生まれ。海軍兵学校卒業後、巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗り組み、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻に出撃し、生還。49年、東大建築学科卒業。67年に日本設計事務所(現・日本設計)設立。霞が関ビル、新宿三井ビルなどの超高層ビルのほか、ハウステンボスなど環境共生型テーマパークの設計に携わった。