戦後73年 消えぬ記憶 句に込め - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000124.html
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終戦記念日に復活した「平和の俳句」には、73年前の戦争を生き抜いた人々からも、多くの句が寄せられている。平和への祈りを込め、17文字に忘れられない光景がつづられた。
◆神奈川県厚木市高橋和男さん(81) 涙の告白「殺すつまった」
叔父帰国「人殺した」としゃくりあげ 
「こう正座して。手を膝の上に置いて」−。鉛筆でラフな絵を描きながら、神奈川県厚木市の元会社員高橋和男さん(81)は記憶をたどった。終戦の翌一九四六年夏ごろ。当時、一家が住んでいた福島県に中国北部から戻ってきた叔父の薫(かおる)さんが、ポロポロ涙を流しながら言った。
「俺、殺すつまった」「俺、人殺すだ」
当時九歳だった高橋さんは「目の前で血を見たんだな」と直感したという。「遠くの人を撃ったり、自分の命も危ない場合の言い方と思えない。(薫さんは)まだ二十代前半。おとなしい性格だった。上からの命令で、相手は捕虜か民間人だったのか。そのへんは分からない」
長男だった高橋さんの父は召集はされたが、前線には出ずに終戦を迎えた。父の弟のうち海軍の駆逐艦に乗った次男はソロモン海戦で亡くなった。四男は海軍の特攻兵器・特殊潜航艇の乗組員だったが終戦で出撃せずに済んだ。「前線から帰国したのは三男の薫叔父ただ一人。父たちとまとう雰囲気が違っていたことを覚えています」
周囲の親戚は口々に「戦争だもの」「しょあんめーしさ(しかたないさ)」と叔父を慰めていた。
普通の大人たちが、人を殺すことを「仕方がない」と言うようになるのが、幼心に刻まれた戦争の姿だ。日本人も、米国人も変わらない。「戦争になると人は常人でなくなる」。叔父の苦しみを思い、平和への願いを句に込めた。 (山本哲正)
◆東京都小平市・内海琢己さん(93) ためらい抱え日没後の帰還
生きて来し想ひ噛(か)み締め学徒兵
一九四五年七月、陸軍の「特甲幹」(特別甲種幹部候補生)と呼ばれる学徒兵だった内海琢己さん(93)=東京都小平市=たちは突然、熊本に集められた。課されたのは、米軍の本土上陸を想定し、爆薬とともに戦車の底腹部に飛び込む猛特訓だった。
広島師範学校在学中の同年三月に召集を受けた。十九歳だった。激励会で贈られた日の丸の寄せ書きに、父は「皇国 男子の誉」とつづった。「死ぬのは怖くなかった」という。
前線に出ることはなく岡山県の予備士官学校終戦を迎え、郷里の広島県尾道へ。生きて帰ったことを一刻も早く両親に知らせたい思いはあったが、人目を避けるように山に登り、薄暗くなってからわが家に帰った。
「何か晴れがましいような形で帰っていくわけにはいかなかった」。多くの兵士が戦死した。句に投じたのは、同じ運命にいたはずの自分が今こうして生きていることへの思い。日暮れを待った当時のためらいもよみがえってくる。
「今も、学徒兵時代の夢を見るんです」
戦後に師範学校を卒業し五十二年間、高校や大学などの教育現場を歩んだ。  「教え子たちを戦場に送ってはならない」と心に期してきたという。「自分はどうすべきかを考えていくのが大事なんだと思う」と結んだ。 (石川修巳)