<象徴天皇と平成>(下)平和希求 背中で語る 父の実像追い 続けた慰霊 - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000138.html
https://megalodon.jp/2018-0815-0933-30/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000138.html

終戦前後の混乱の中、一九四六年に中学生の学齢を迎える皇太子だった陛下の教育をどう進めるかは待ったなしの課題だった。
専用の教育施設を設ける構想もあったが、陛下は学習院中等科に進む。指導陣に米国人のバイニング夫人や元慶応義塾塾長の小泉信三が迎えられた。学友の明石元紹(もとつぐ)(84)は「二人から、他者の人権を尊敬することで敬われるということを教わった」と、今につながる象徴天皇像の原型を見る。
四九年四月、高等科一年になった陛下は広島を訪れた。学友、栄木(さかき)和男(84)の父で東宮侍従を務めた栄木忠常(故人)の日誌には、現地で陛下が述べたお言葉の要旨が残る。「(原爆投下)当時の話を聞き、同情に堪えない気持ちで一杯」「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」。かつての「軍国少年」の面影は、既にない。
日本が平和国家の歩みを始めると、戦争の記憶は昭和天皇と陛下の父子に影を落とす。学習院初等科から机を並べた橋本明(故人)は本紙の取材に、若いころの陛下が「木戸幸一日記」と、元老として昭和天皇の助言役だった西園寺公望の元秘書、原田熊雄(故人)の証言をまとめた「西園寺公と政局(原田日記)」を熟読し、「『原田日記のほうが詳しい』と話していた」と証言していた。
両書とも戦争責任が軍部にあることを示す証拠として東京裁判に提出され、昭和天皇免訴につながった。橋本は「陛下はこのプロセスを通じて、父は軍国主義者なのか、平和主義者なのかを勉強し、平和を愛する人と納得した」と分析し、「おやじを理解するために、息子の方が努力した」と付け加えた。
陛下は皇太子時代の会見で「平和国家、文化国家という言葉をもう一度かみしめてみたい」と語った。即位後は戦後五十年の長崎、広島、沖縄、六十年のサイパン、七十年のパラオなど慰霊の旅を続けた。元宮内庁幹部は「花を手向け、頭を下げる姿を示すことで、国民に忘れてはいけないと背中で語った」と話す。
「嫌な時代でしたね」。陛下は作家の半藤一利(88)やノンフィクション作家の保阪正康(78)ら在野の歴史家を御所に招き、近現代史を学び続けてきた。皇后さまも交えたその場は、誰からともなく当時の思い出話になる。
ある時、半藤と保阪が満州事変などを例に「昭和天皇は戦線不拡大の方針だった」との見方を示すと、陛下は深くうなずいたという。保阪は根源にある思いを「父が積極的に戦争をしたわけでないという安堵(あんど)感が欲しい。だが現実に天皇の名の下に何百万人も死んだ。では自分はどうすれば良いのか、ということだろう」と推し量る。
八月十五日の全国戦没者追悼式。二〇一五年以降、戦争の記憶の風化と、戦前日本を正当化する風潮にあらがうかのように、「さきの大戦に対する深い反省」に言及し続けている。
「自分の思いに反して戦争で命を落とした人がいる。だからこそ、もう少し知的な行動で戦争を防げないか、と」。明石は陛下の言葉にそんな強い思いを読み取っている。 (敬称略) (小松田健一、荘加卓嗣)