憲法70年 25条の意味、問い直そう - 朝日新聞(2018年4月30日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13474691.html
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1945年暮れ。憲法学者らでつくる研究会のまとめた憲法改正草案が新聞各紙に載った。
この中に「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」という一文がある。
連合国軍総司令部(GHQ)の憲法草案や政府原案にはない言葉だ。研究会メンバーだった森戸辰男衆院議員らの提案で、今の憲法25条に反映された。
当時の国会審議で、こんな発言がある。「国民をしてこれに希望をつながせ、納得させることになる。そうしないと国民は、日常の生活に対して実益のない憲法として無関心になったり……、人心は憲法を忘れ……憲法の危機を招くという結果に相成るではないか」。修正案は、憲法への信頼を高め、国民の希望になると考えられた。
あの時代の熱気、掲げた理念を、思い起こしたい。
■揺れる「最低生活」
「健康で文化的な最低限度の生活」を国民の権利とした憲法25条。その理念に基づき生まれたのが今の生活保護法だ。「最低限度の生活」に必要な費用を具体的に定めた保護基準は、社会保険料の減免、就学援助、最低賃金などの参考にもされる。
その保護基準が、今、大きく揺れている。
自民党が政権に復帰した直後の2013年、制度始まって以来最大の引き下げが行われたのに続き、この10月からさらに引き下げるという。
保護基準のありようには、時代の空気が色濃く映る。
戦後まもなくは、生きていくのに最低限必要な、ぎりぎりの基準だった。経済成長で一般国民の生活水準が上がると、格差の拡大が問題になった。「保護基準は低すぎる」として争われた「朝日訴訟」もあり、60年代半ばからは基準の引き上げに主眼が置かれる。「一般勤労者世帯の消費水準の少なくとも60%程度」が目標とされた。
80年代に入り、保護基準は「ほぼ妥当な水準」になったとされ、以降、民間消費支出の伸びを参考にこの水準を維持する方式がとられてきた。
それが小泉内閣の「聖域なき構造改革」のもと、見直しを迫られた。04年、厚生労働省の専門委員会が低所得世帯と比較して5年ごとに水準を検証することを提案。骨太の方針06にも「低所得世帯の消費実態等を踏まえた見直し」が明記された。
今年10月の引き下げで、高齢者世帯などの基準は一般世帯の6割を下回ることが見込まれる。引き下げはどこまで許容されるのか。議論はないままだ。
■引き下げ民主主義
もう一つの問題が、生活保護制度の外に広がる貧困だ。
扶養は家族の義務との考えが強調される日本では、生活保護の受給のハードルは高い。保護基準以下の世帯のうち実際に制度を利用している割合は、2割に満たないとの研究もある。
さらに、非正規の増加など雇用環境の悪化で、ワーキングプア(働く貧困層)が広がり、働けば自立できるという前提も崩れてきた。
こうした貧困の広がりが、生活保護に厳しい空気を生んでいる。
社会の断層を修復するはずの政治も、むしろ対立を利用しているように見える。
芸能人の母親の生活保護受給に対するバッシングが高まり、生活保護を揶揄(やゆ)する「ナマポ」が流行語大賞の候補になった12年、自民党は「生活保護の給付水準10%引き下げ」を衆院選の公約に掲げ、政権復帰した。
政治学者の丸山真男は「『文明論之概略』を読む」の中で、人をねたみ、引きずり降ろすことで満足を得ようとする振る舞いを「引き下げデモクラシー」と呼び、戒めている。足の引っ張り合いを続ければ、最低保障の底は割れかねない。
そんな政治に歯止めをかけるのも、25条の役割ではないか。
■生活に生かす営みを
現代にふさわしい「健康で文化的な最低限度の生活」とは何か。どの程度の水準の生活を、同じ社会に生きる人に保障すべきなのか。
25条の理念を改めて社会全体で共有するための、新たな議論が必要だ。
9年前、民主党政権が誕生した時に、その機運が盛り上がりかけたことがある。厚生労働相のもとに「ナショナルミニマム研究会」が設けられた。
健康で文化的な最低限度の生活を守るには生活保護制度だけでなく、子ども手当や住宅手当など、重層的な取り組みが必要だ。そんな議論がされた。
もちろん実現は容易ではない。国民的合意を得るには時間もかかる。しかし政治にとって、避けられぬ課題のはずだ。
25条の理念をどう暮らしに反映していくか。それを問い続けることは、私たちがどんな社会を目指すかを考えることにほかならない。

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憲法70年」のシリーズは今回で終わります。