<ひと物語>大空襲の記憶 封印解く 2年前から語り部 藤間宏夫さん:埼玉 - 東京新聞(2018年3月5日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201803/CK2018030502000138.html
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約十万人の命を奪った東京大空襲から、十日で七十三年になる。「あの夜は火の海を逃げ惑い、死も覚悟した。自分の体が動くうちに、戦争の現実を伝えたいと思った」。そう話す藤間宏夫さん(79)=草加市=は二年前から、ずっと胸に秘めていた自身の体験を人前で語るようになった。
六歳だった一九四五年三月十日の午前零時すぎ。東京都中央区日本橋浜町の自宅で寝ていたとき、「ドーン」という衝撃で跳び起きた。焼夷弾(しょういだん)だ。家には当時、母と三歳下の弟がいた。三人で玄関を出ると、自宅も近所も火だるまになっていた。
弟をおぶった母の手を握り、火の海をさまよった。焼夷弾の「ヒューッ」と落ちる音はやまず、次々と火柱が上がる。一時間ほどして、コンクリートの建物を見つけた。半地下の車庫に数人が避難していて、中に入れてもらった。すぐにシャッターが閉められた。
周りの壁が熱くなり、隙間から煙も入ってくる。だんだん息苦しくなる中、母に「もう死ぬんだよ」と告げられた。「そうだろうな」と覚悟したが、車庫は奇跡的に持ちこたえた。空襲は終わり、夜が明けた。
外に出ると、見渡す限り焼け野原だった。「黒焦げの遺体があちこちに倒れているのを見て、初めて本当に怖くなった」
その後に家族で身を寄せた六本木の親類宅でも空襲に遭い、九死に一生を得た。さらに静岡県疎開したときも、米軍機の爆撃で命を落としそうになった。食糧難で飢えに苦しみ、虫も野草も口にした。
終戦後に東京に戻り、会社勤めなどをして暮らしてきた。空襲の恐怖も疎開生活のむごさも鮮明に覚えているが、ほとんど誰にも語らなかった。「僕が話しても、同じ体験者でなければ理解してもらえないだろうと思った」からだ。
転機は三年前だった。江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」をたまたま見学に訪れた後、スタッフに「語り部になってほしい」と頼まれた。「戦争や空襲に関心のある人に話すのであれば、意味があるかもしれない」と引き受けた。
一昨年からセンターや学校に招かれ、三十回ほど語り部を務めた。「話を聞いて胸が痛みました。戦争の悲惨さを学ぶことができました」「こんな悲しいことが絶対に起きないようにしたい」−。そんな感想文が中学生から寄せられ、心から喜んだ。
「戦争で最も犠牲になるのは庶民。私は体験者として、戦争は絶対にあってはならないと思う」。若者に語り伝える難しさに悩みながらも、「一人でもいいから、僕のメッセージが伝われば」と願う。(杉本慶一)

<ふじま・ひろお> 東京都の旧日本橋区浜町(現中央区日本橋浜町)出身。29歳で結婚し、2015年から草加市に住む。10日午後2〜4時に「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)で行われる「展示見学&空襲体験を聞く会」では、体験者の1人として来場者と交流する予定。一般の人の参加費は、入館協力費として300円。問い合わせは、同センター=電03(5857)5631=へ。