<憲法を見つめて 福島の権利>(上)安蔵の志 継ぐ 創案した学者。生家と生存権守らねば - 東京新聞(2018年3月4日)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201803/CK2018030402000138.html
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昨年十一月ごろ、福島県南相馬市小高(おだか)区で生まれ育った元漁師の志賀勝明(69)は一本の電話を受けた。相手は旧知の鈴木千代(91)。小高出身の憲法学者鈴木安蔵(一九〇四〜八三年)の義理のめいに当たる。千代は言った。「何とか家を残したいのだけれど…」
安蔵は敗戦直後の一九四五年十二月、民間の「憲法研究会」のメンバーとしてまとめた「憲法草案要綱」を発表し、首相官邸連合国軍総司令部(GHQ)にも提出。国民主権などが盛り込まれ、GHQの草案にも影響を与えた。
「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」
安蔵作成の案には生存権もこう明記され、現憲法二五条に生かされている。その生誕の地が東京電力福島第一原発事故によって汚染され、多くの住民の生存権が踏みにじられてきた。
安蔵の生家は、JR小高駅から延びる目抜き通りの一角にある。東日本大震災で土蔵の壁が崩れたものの、大正時代に建てられた純和風の屋敷外観は風格あるたたずまいを保つ。
家を継いだ千代と長男の新樹(しんじゅ)(67)が薬局を営んで守ってきたが、今は横浜市に避難する。「店舗部分を壊して家を残そうとしたが、業者に難しいと言われ、解体を覚悟した」と新樹は話す。事故時に約一万三千人が暮らしていた小高は、二〇一六年七月に避難指示が解除された。しかし、帰還率は二割程度。安蔵の生家周辺のあちこちで家屋が解体され、くしの歯が欠けたように更地が増える。
「まさか安蔵の生家が壊されるとは」。驚いた志賀は、県内各地の九条の会のメンバーに協力を仰ぎ市側に保存を訴えた。行政も郷土の偉人の足跡を残すことに協力を惜しまず、国の登録有形文化財として保存する方向で調整が進む。
安蔵が民主的な憲法案をつくった背景には、京都帝国大(現京都大)在学中の一九二六年、戦前・戦中の思想弾圧に使われた治安維持法が内地で初めて適用された「京都学連事件」に巻き込まれたことがある。安蔵に師事した立正大名誉教授の金子勝(74)は「学問をするだけで弾圧する国家体制に疑問を抱き、憲法の研究を始めた」と語る。
安倍晋三政権の下で改憲が現実味を帯びる中、志賀は危機感を募らせる。「事故で地域はバラバラになった。さらに九条が変えられて戦争が起きれば、生存権は完全に失われる。安蔵の生家保存をきっかけに、小高の九条の会をもう一度活性化したい」
安蔵の足跡を調べてきた詩人の若松丈太郎(82)=南相馬市原町区=は昨年八月に出版した詩集「十歳の夏まで戦争だった」で、少年時代の戦争体験をつづった。「このままでは、後々の世代に『あのとき、あなたたちは何をしていたのだ』と非難される。安蔵に負けるわけにはいかない」
南相馬市は一六年五月、全世帯に憲法全文の小冊子を配った。安蔵の生家保存を後押しする「はらまち九条の会」の山崎健一(72)=福島市=らが尽力した。山崎も原発事故後、憲法の理想と現実の落差を痛感する。「安蔵が創案した憲法が生誕の地で最も守られていない。憲法を守ろうとしない人たちに新しい憲法をつくる資格はない」 (文中敬称略、佐藤圭)

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原発事故から七年を迎える福島で、憲法の理念と改憲論議を考える。

十歳の夏まで戦争だった

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