<対談「薩長史観」を超えて>(4)教訓 北朝鮮は戦前日本と類似 - 東京新聞(2018年2月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018022302000125.html
https://megalodon.jp/2018-0223-1040-06/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018022302000125.html

北朝鮮による弾道ミサイル発射や、核実験など軍事挑発が続いています。安倍政権は安全保障環境の厳しさを強調しています。
◆石油禁輸は危険
半藤一利さん 北朝鮮に元に戻れというのは無理でしょう。昭和史を勉強すればするほど分かるが、ある程度のところで凍結して話し合うべきだ。一番やってはいけないのは石油を止めること。旧日本軍のように「だったら戦争だ」となる。そういう教訓があるんだから、話し合いの席に導き出すような形に早くするべきで、いわんや安倍さんが言うように圧力一辺倒なんてとんでもない話だと思います。
保阪正康さん 半藤さんの議論に基本的に賛成なんですが、あえてもうひとつ別な視点を付け加えると、弾圧する側とされる側は、かなり相似形の組織をつくる。今の北朝鮮は、かつて日本の軍国主義が植民地にしていたわけで、金日成の統治は日本のまねをしているという感じはしていました。「絶対王政」が二代三代と続き腐敗していく中で、最終的に人民反乱が起きるのは歴史の教訓なんだけども、今のところ起こりそうもないですね。
−国際社会の歴史から教訓は得られますか。
半藤 日本が一九三一年に満州事変を起こすのですが、その直前の二九年に世界恐慌が起きて、それまで世界の平和をリードしていた米国が、アメリカファースト(米国第一)になって内向きになった。欧州各国も続き、日本はチャンスだと満州事変を起こした。同じことを今やっているんですよ、世界は。
◆対話ルート必要
保阪 二〇〇二年、小泉純一郎元首相が訪朝しました。「行って話をしてくる」という姿勢を示したのは、一つの見識だったと思う。話し合いのルートをつくっていかないと。それさえ拒否するとなると、戦争しかないという方向を許容するのか。そういうことになるんだと思うんです。
−戦争を始めても終わらせることは難しい。
保阪 開戦前の大本営政府連絡会議で戦争終結に関する腹案というのが了承されてます。主観的願望を客観的事実にすり替えている内容で、これが戦争前の日本のすべての判断の根幹にありました。エリート軍人は無責任で、まったく国民のことを考えていない。多くの軍人に会い、官僚の体面の中で始められた戦争だということを徹底的に知った時、彼らは日本の伝統や倫理、物の考え方の基本的なところを侮辱したんだ、その責任は歴史が続く限り存在するんだということを次の世代に伝えたいですね。

半藤 この年になって「世界史のなかの昭和史」という厚い本を出します。海軍中央にいたのは全部、親独派です。親米派はおん出されている。親独派はほとんどが薩長出身者です。ほんとなんですよ。陸軍も親独派はだいたい薩長です。戦争をやめさせた鈴木貫太郎終戦当時の首相)<注1>は関宿(せきやど)藩、三国同盟に反対した元首相の米内光政(よないみつまさ)<注2>は盛岡藩、元海軍大将の井上成美(しげよし)<注3>も仙台藩で、薩長に賊軍とされた地域の出身者です。日米開戦に反対した山本五十六(いそろく)<注4>も賊軍の長岡藩。賊軍の人たちは戦争の悲惨さを知っているわけですよ。だから命をかけて戦争を終わらせた。太平洋戦争は官軍が始めて賊軍が止めた。これは明治百五十年の裏側にある一つの事実なんですよ。 =おわり

 (この連載は瀬口晴義、荘加卓嗣が担当しました)

■注1 鈴木貫太郎 1868〜1948年。日清、日露戦争に参加し、連合艦隊司令長官軍令部長を歴任。昭和天皇侍従長を務めた際、親英米派と目され、二・二六事件で襲撃を受け瀕死(ひんし)の重傷を負う。敗戦直前の45年4月に77歳で首相となり、軍部の主戦論を退け、ポツダム宣言受諾へ導いた。

■注2 米内光政 1880〜1948年。軍人、政治家。連合艦隊司令長官などを務め、海相として日独伊三国同盟に反対。40年に首相を務めたが、陸軍の抵抗で内閣は瓦解した。44年から再び海相を務め、終戦と戦後処理に当たった。

■注3 井上成美 1889〜1975年。海軍兵学校長、海軍次官などを歴任。米内光政、山本五十六と並ぶ親英米派で、日独伊三国同盟に反対した。戦後は神奈川県の三浦半島に隠せいし、地域の子どもに英語を教えて暮らした。

■注4 山本五十六 1884〜1943年。駐米武官などを経て、海軍航空本部長として航空戦力の充実に尽力した。海軍次官として親英米派の米内海相を補佐し、日独伊三国同盟に反対した。対米開戦にも反対をしたが、連合艦隊司令長官に転出した後は自ら望まぬ対米戦争を指揮することになり、真珠湾への先制攻撃を立案した。前線視察中に搭乗機が待ち伏せしていた米機に撃墜され戦死。