日米開戦から76年 問い直す「なぜ戦争を」 - 東京新聞(2017年12月8日)

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日米の戦争。敗戦と占領、安全保障条約でなお結束されている日米関係−。あの真珠湾攻撃の日から七十六年たつ今、「なぜ戦争を」と問うてみたい。
<嘗(かつ)てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐(ふくしゅう)だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴(はら)すべきときが来たのである>
真珠湾での日本海軍の大勝利の知らせに評論家の亀井勝一郎は、そう書いた。古寺巡礼や仏教美術への傾倒から古典論、日本人論などの著作を通じ、戦後も活躍して、広く知られた。冒頭の言葉は作家の半藤一利氏の「『真珠湾』の日」から引用した。

“真珠湾”の日 (文春文庫)

“真珠湾”の日 (文春文庫)

◆明治人は「雪辱」の思い
米国と江戸幕府日米和親条約(一八五四年)や日米修好通商条約(五八年)を結んだ。治外法権があり、関税自主権がなかった。確かに不平等条約であり、明治期は条約改正に苦しんだ。
真珠湾で開国からの屈辱を晴らした−。明治人にはそんな思いがよぎったのだろう。むろん条約改正を果たした間には、日清・日露の勝利がある。
英米憎しの思いは、一九二二年の海軍軍縮条約にもある。主力艦の保有が日本は英米より劣る数しか認められなかった。後の帝国国防方針の改定版では、情勢判断としてこう記す。
<帝国と衝突の機会最(もっとも)多きを米国とす>
国防は衝突の可能性が最も高い米国を目標とし、これに備える−。日米開戦の二十年近くも前からそのように軍部が考えていたとは驚きである。
だが、相手は大国。四一年時の国力差は国民総生産で十二倍、石油保有量は七百倍以上も差がある。それでも幻想があったはずだ。国力差が十倍もあるロシアを破った栄光が幻影となって…。
◆孤立化の道が原因だ
四一年十二月九日の「新愛知」(現在の中日新聞)朝刊は「戦艦二隻轟沈(ごうちん)・四隻撃破 赫々(かくかく)たり ハワイ大空襲」と一面で大きく報じた。真珠湾攻撃アリゾナなど戦艦八隻を撃沈・撃破した。日本中が勝利に沸き立った。「万歳」「万歳」で酔った。
冷静だった人もいる。東京帝大で国際法を教えた横田喜三郎(戦後の最高裁長官)は軽井沢(長野)で真珠湾の一報を聞いた。戦後の回想録では「わたくしの心は暗かった。(中略)敗戦は必至であるとおもった」と記している。
横田は当時、真珠湾攻撃国際法で合法かどうか、東大で講義をした。最後通牒(つうちょう)の在り方、開戦が不意打ちかどうか。その条約について学生に説明した。はっきり不法と言わなかったが、普通の学生には伝わったようだ。東大教授であった矢部貞治の当時の日記には次のように書いてある。
<横田氏は教室で真珠湾攻撃は不法だなどと馬鹿(ばか)げたことを発言している>
実際、通告文書がワシントンの日本大使館から届けられる前に攻撃が始まっていた。この問題が米国の世論を怒らせた。また、日清・日露の戦争では文明国たるべく国際法を守る宣言をしたが、太平洋戦争の「開戦の詔勅」には国際法に類する言葉もなかった。
それにしても日米開戦は回避できなかったのか。人はいう。中国などからの全面撤退などを求めたハル・ノート。決して日本が受け入れられない条件を提示してきたからだ−と。A(米国)B(英国)C(中国)D(オランダ)のABCD包囲網の経済封鎖のせいだと。米国の石油の全面禁輸のせいだと。在米日本資産の凍結のせいだと。でも、この対日制裁はどこから来たのか。
時計の針を逆回しにしていくと−。二八年のパリ不戦条約のわずか三年後に日本は満州事変を起こし、傀儡(かいらい)国家・満州国をつくった。これで日本は国際連盟を脱退せざるを得なくなり、孤立化の道を歩んだのだ。三七年には日中戦争を始める。ちょうど今年は八十年にあたる。
十二月には多くの中国人を虐殺する南京事件を起こしている。二〇〇六年から行われた日中歴史共同研究報告書が外務省のホームページに載っている。
◆負の歴史を直視して
アメリカ人記者(中略)などが、日本軍が南京で捕虜や民間人を虐殺した残虐な行為を連続して報道した。(中略)英・米・独などの外交官がさまざまなルートを通じて日本軍が南京で暴行を続けていることを報告し、世界の世論を驚かした>
世界から孤立し侵略戦争を進めたことこそ、日米開戦に至る遠因だったろう。そして惨めな敗戦に至った原因でもある。今、負の歴史を隠す風潮がある。歴史には正直者でなければならぬ。