「天国の母さんへ」 少年院の日々を経営に生かす 教官と教え子、異色のタッグ - 沖縄タイムズ(2018年1月24日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/198632
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◆青葉のキセキ−次代を歩む人たちへ−(9)第1部 立ち直り 琢哉 恩師と共に(下)
あれだけ更生を誓ったのに、暴走仲間の誘いを断れない。2011年秋、18歳で沖縄少年院を卒業したばかりの原琢哉(24)は、過去の悪習を断ち切れずにいた。暴走に加わりながらも「後部座席に座っただけ。運転はしていない」と正当化し続けた。後戻りしそうな自分が情けなく、許せなかった。
2カ月後、しがらみのない神奈川県に飛び、塗装屋で働き始めた。塗料が合わず肌が荒れ、抗生物質を飲んで耐える日々。全身が水膨れになっても踏ん張れたのは、沖縄で独立する夢があったからだ。約5年の下積みを終え、宜野湾市に戻った15年10月、念願の塗装会社を立ち上げた。
ある日、ふと「今、先生は何をしているんだろう」と思った。少年院卒業後は教官との接触が一切禁じられる。時折のぞいた恩師の武藤杜夫(40)のフェイスブック。昨年3月、幹部への昇任人事を固辞し、沖縄少年院を辞めたことを知った。
子どもと向き合う現場にこだわった武藤は、辞職後すぐに「日本こどもみらい支援機構」を設立。4月、再会した原に「少年院のみんなが母校にプライドを持てるようなことをしよう」と講演活動を打診した。
少年院時代、沖縄県内の中学校で話をする武藤に対し、少年らは「不良だった先生が講演していいんですか」とからかった。原も笑っていた。それでも武藤は「お前たちだって社会に出て輝ける存在だ。いつか日本中で講演する機会がくる」と説き続けた。「本当にやるんだ」。原は武藤の決意を受け止める。塗装業の傍ら、教官と教え子が組む異色の講演行脚が始まった。
6月以降、県内外で開催した講演会は計6回。そのたびに原は、沖縄少年院の意見発表会で優勝した作文「天国のお母さんへ」を必ず読むことにしている。
末期がんで苦しいはずなのに、いつも笑顔を絶やさなかった母。小学校3年だった01年11月11日、容体の急変を知らされ、病室へ駆け込んだ。「帰ってくるって言ったでしょ」。母の冷たくなった手を握り締め、泣き叫んだあの日。「親孝行は俺が天国に行ってから思う存分やってあげたい。それまでずっと見守っていてください」
原は今、塗装業の経営者として8人の従業員と日々対話を心掛ける。それがいい仕事につながると、考えるからだ。「先生はその何百倍の数の生徒と真剣に向き合ってきた」と語る。経営者や2人の子を持つ親となり、改めて思う。「少年院の日々が今の自分を支えている。自分の経験が、誰かの助けになれば」。恩師との講演活動はこれからも続く。=敬称略(社会部・山城響)第1部おわり