http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2017080202000162.html
https://megalodon.jp/2017-0802-0922-13/www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2017080202000162.html
七月二十六日に沖縄県民葬が営まれた元県知事の故大田昌秀さんに二度、インタビューしたことがある。
一度目は一九九五年の米兵による少女暴行事件のときだ。二度目は戦後六十年の二〇〇五年で、戦中の記憶を語ってもらった。そこで教えてもらった歴史がある。
一九四五年八月十五日。つまり終戦の日。平和が戻った日であると思い込んでいたが、沖縄師範学校の学生で「鉄血勤皇師範隊」に組み入れられていた大田さんらには平和など訪れては来なかったそうだ。
その日、米軍の軍艦から花火が打ち上げられるのを見ただけである。「終戦」どころか、米軍の掃討戦は十月すぎまで続いたという。宮古島や奄美諸島にいた陸海軍の将官が確かに、米軍の司令官との間で九月七日に降伏文書に署名している。
それでも戦闘があったというのだ。大田さんも至近弾を受けた。南部の摩文仁の丘から出たのは十月二十三日である。唯一の地上戦があった沖縄はいわば「捨て石」同然だった。占領下から現在も米軍基地は残る。
「沖縄が『捨て石』なのは今も同じ」と嘆く大田さんに当時、最も恐ろしく感じることは何かと尋ねてみたら、こんな答えだった。
「新聞の論調が戦前と同じように、権力に迎合する風潮が強まっていることですね」 (桐山桂一)