週のはじめに考える 沖縄、統合と分断と - 東京新聞(2017年5月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017051402000152.html
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四十五年前のあす十五日、沖縄県は日本に復帰しました。しかし、米軍基地をめぐる沖縄と本土との分断は以前にも増して深まっているように見えます。

<みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平らけき世に思ふ命たふとし>

天皇陛下が皇太子時代の一九七六年、歌会始で詠まれた歌です。陛下はこの前年、皇后さまとともに初めて沖縄県を訪問され、本島南部の摩文仁を訪れています。
その三十年前、太平洋戦争末期に、沖縄は住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場と化しました。摩文仁は、慰霊塔が並ぶ沖縄戦最後の激戦地です。
◆両陛下、慰霊に思い深く
沖縄戦では当時六十万県民の四分の一が犠牲になった、とされます。陛下の歌からは、戦没者を悼む深いお気持ちが伝わります。
両陛下の沖縄訪問は皇太子時代を含めて十回を数えますが、いつも真っ先に訪ねるのが南部の戦跡です。七九年、摩文仁国立沖縄戦没者墓苑ができてから、必ず最初の訪問先になっているのも、両陛下の強いご希望だといいます。
陛下は八一年の記者会見で「日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つはあると思います」と述べられています。
四つとは、広島、長崎に原爆が投下された八月六日と九日、終戦の同十五日、沖縄で大規模な戦闘が終結した六月二十三日です。
太平洋戦争の戦没者慰霊の旅を続ける両陛下にとって、沖縄戦での多大な犠牲は、広島、長崎への原爆投下と同様、記憶にとどめるべき出来事なのです。
天皇の名の下に始まった戦争の犠牲者慰霊こそ、国民の安寧を祈る天皇としての務めとされているのでしょう。しかし、沖縄に寄せる深いお気持ちは、それだけではないように思えてなりません。
天皇制支配枠外の琉球
沖縄にはかつて「琉球国」という、日本とは別の国家だった歴史があります。江戸時代の薩摩藩による侵攻を経て、日本とされたのは明治時代の琉球処分によってです。日本史上、沖縄は長い間、天皇制支配の枠外だったのです。
明治政府によって、沖縄は徐々に日本に「統合」されていきましたが、日本の敗戦によって再び、本土から切り離されます。苛烈な米軍統治の始まりです。米国から日本に施政権が返還されたのが七二年五月十五日でした。
戦後施行の日本国憲法は、天皇の地位を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めます。
日本とは別の独立国だった歴史を持ち、戦後は一時期、異国支配の苦難を強いられた沖縄です。
国政に関する権能を有しない天皇ですから、安易な推測は慎むべきですが、そうした沖縄だからこそ、天皇陛下は深い思いを寄せることで「統合」の象徴としての務めを誠実に果たそうとされているのではないでしょうか。
沖縄にとって四十五年前の本土復帰は、日本国憲法の下への復帰でもありました。
人権軽視の米軍統治下にあった沖縄の人々にとって、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本理念とする日本国憲法は輝いて見えたことでしょう。
しかし、沖縄では憲法の基本理念は、いまだに在日米軍専用施設の約70%が県内に集中することによって、完全に実現されているとは言えない状況です。
沖縄は日本全体の安全保障のために重い基地負担を強いられています。本土と沖縄を隔てる分断の構図は、本土決戦を遅らせる「捨て石」とされ、多大な犠牲を出した沖縄戦と同じです。
翁長雄志知事をはじめ沖縄県民の多くは名護市辺野古沿岸部での米軍基地新設に反対しています。
それがたとえ危険な米軍普天間飛行場を閉鎖し、日本側に返還するためであっても、同じ県内に移設するのなら、県民には抜本的な負担軽減にはならないからです。
日米安全保障体制が日本と周辺地域の平和と安全に死活的に重要だというなら、その米軍基地負担は沖縄に限らず、日本全体ができる限り等しく負うべきでしょう。
◆県民威圧する安倍政権
にもかかわらず、安倍政権は県側の言い分に耳を傾けず、辺野古での基地建設を強行しています。県外から警察官を投入し、抵抗する県民を威圧するような強権的手法は、国民の統合に逆行し、本土と沖縄との分断を煽(あお)るだけです。直ちにやめるべきだ。
沖縄の地元紙などによる世論調査では約八割の県民が「復帰してよかった」と答えています。
私たちは、沖縄の歴史や苦難、そして今も強いている重い基地負担にもっと思いを致すべきでしょう。それが、国民統合を肯定的に受け止めている沖縄県民の思いに応えることにもなるからです。