(憲法を考える)施行70年 子どもの権利は 平湯真人さん、増田ユリヤさん、荒牧重人さん - 朝日新聞(2017年5月5日)

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憲法論議で子どもの立場はどのくらい意識されているのか。首相が改憲に向けて表明した考えでは、高等教育の無償化に前向きな姿勢も示した。節目の年、子どもを主役に考える。

■親の権利は一歩下がって 平湯真人さん(弁護士)
憲法に、子どもに関する条文は、26条の義務教育、27条の児童労働に関する規定程度しかない。だからといって、子どもを守るのに、今の憲法が不十分だとは思いません。
子どもの権利については、憲法を補うものがあります。1947年制定の児童福祉法と51年制定の児童憲章です。後者は法律ではありませんが、具体的な項目を示して、子どもに対する大人の社会的責任が強調されている。普通の法律にはない柔らかさ、親しみもあります。いま読んでも決して古くありません。
もう一つ、憲法を補う役割を果たしているのが、94年に批准した子どもの権利条約です。非常に細かいところまで精緻(せいち)にできている。中でも、「子どもの最善の利益」が重要な概念となっています。
この70年間、家族や家庭は、内側からも外側からも大きく変化しました。対応して児童虐待防止法や子どもの貧困対策法などがつくられた。しかし、そうした法律が、憲法、児童憲章や子どもの権利条約の理念を十分に活用しているかというと、まだまだと言わざるをえないでしょう。
「子どもの最善の利益」を追求すべきという点では、反対はなくなっています。ただ、具体的にどういう場面で何をすべきなのか、社会的合意をつくるのは難しい。虐待を防ぐために、親から子どもを離そうとする場合、さまざまな異論や反発が出てきます。子どもをめぐる状況が変われば、「最善の利益」の内容も変わってくるからです。
最近の虐待事件の報道を見ていると、助ける機会があったのに、サインに気づかなかった例が目につきます。児童相談所のスタッフや地域の人、弁護士らが、家族をめぐる異変を感じとり、うまく関わっていく力を身につけていくしかない。そうしないと、「最善の利益」はいつまでも達成できません。
一方で、国家なり行政なりが、一定程度まで家庭に関与する必要があります。児童虐待防止法は何度も改正されていますが、基本的には、行政が関与してもいい範囲を広げる方向になっています。とはいえ、この方向に疑問を呈する意見もあります。
子どもを持つ以上、暴力や育児放棄は許されません。極力、親にも納得してもらうよう努力し、子どもの今後について一緒に考えていくのが前提ですが、やむをえない場合は、行政権限を行使することも必要です。単純な比較はできませんが、親の権利は、子どもより一歩下がったところにあっていいはずです。この点の再確認が必要です。
憲法に「子どもの最善の利益」を反映させるのが先だという意見もあるかもしれません。しかし、そうした憲法がなければ、先に進めないというわけではないと思います。
(聞き手 編集委員・尾沢智史)

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ひらゆまさと 43年生まれ。裁判官を経て弁護士に。子どもの虐待や貧困に取り組む。共著に「子どもの貧困ハンドブック」。


■教育無償化、まずは理念を 増田ユリヤさん(ジャーナリスト)
国際的にみて、日本の教育制度は優れていると思います。憲法26条の下、義務教育は無償で、公立校できちんと学習すれば学力はつきます。
しかし、「私学や塾に行かないと学力に差がつく」という風潮が固定観念化されています。一方で、子どもの貧困とともに、給食や部活など学校生活に欠かせない費用の負担が問題になってきました。
日本は、経済協力開発機構OECD)の中で、教育の私費負担の割合がずば抜けて多い国です。子どもの教育を自己責任で負う傾向が強いといえます。
高校や就学前の教育無償化を改憲で実現しようという議論が起きています。無償化は賛成ですが、改憲が必要だとは思いません。それより、なぜ公費で負担するのか、しっかり議論するべきです。
無償化が進んでいる欧州の国々では、家庭だけでなく、社会で子どもを育てるという考えが徹底されています。
フランスは、不法入国でも未成年ならその日から公教育が受けられます。大統領選で、ルペン氏が廃止するような方針を掲げましたが、激しい反発を受けています。
国際的な学習到達度調査(PISA)で毎回トップレベルのフィンランドは、1990年代の教育改革が成功しました。不況対策やアルコール依存症問題を議論して、社会保障費より、よき納税者を育てることにお金をかける方にかじを切ったのです。単なる学力ではなく、大人になったときに必要な資質を得られる教育という考え方です。
この改革で教科の壁を越えた学習も取り入れました。日本の総合学習に通じるもので、かつて日本の教育関係者がさかんに視察しました。総合学習は失敗の烙印(らくいん)を押されて縮小しましたが、効果を分析しての転換か、疑問です。
日本の国民は教育熱心です。でも、明確な教育理念があるでしょうか。憲法26条は「その能力に応じて」といい、社会的にも「その子にあった教育を」と言われます。たとえば、公立校でも教員を増やして体制を充実させれば、一人ひとりに行き届いた教育ができるはずですが、現実は教員の労働時間が長くなる一方です。
教育格差是正にはみんな賛成しても、財源の問題がからむと違ってくる。うちには子どもがいないとか、所得が違うのにずるいとか。総論賛成でも明確な理念がないと実現は難しいのです。
単に教育の無償化が必要といった平板な議論でなく、労働や福祉、治安といった社会問題を踏まえて教育を考えていくべきです。子どもたちにどんな力を何のために身につけてほしいのか。そのための教育の大切さへの理解が深まれば、予算配分も教える内容もおのずから定まるはずです。
(聞き手・村上研志)

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ますだゆりや 64年生まれ。国内外で現場取材しテレビなどで活躍。元私立高校教員。著書に「新しい『教育格差』」など。


■大人社会が声を尊重して 荒牧重人さん(子どもの権利条約総合研究所代表)
子どもが様々な権利を持つことは、建前に過ぎないと考えている人は少なくありません。歴史的にも、子どもは保護される存在、教育やしつけの対象として位置づけられてきました。権利の主体と一般的にみなされるようになるのは1980年代になってから。比較的最近のことです。
今日の子どもの権利保障の出発点は、24年に国際連盟で採択された「児童の権利に関する宣言」です。第1次世界大戦では多くの子どもが犠牲になりました。こうした現実を前に食べ物や医療、住居などを保障し「人類は子どもに対して最善のものを与える義務を負う」と定めた。理想からではなく、直面した厳しい現実から鍛え上げられた「現場」に根ざしたものでした。
しかし、子どもはもっぱら保護の対象でした。自分で権利を行使できるという主体としての側面は弱かったのです。日本国憲法は一般的には子どもを権利主体と認めている、とされますが、27条で「児童の酷使の禁止」が定められるなど、未熟で保護されるべき対象と捉えている。制定過程でも子どもの権利が焦点になった形跡もありません。ただ、当時はそういうもので、他国に遅れていたというわけではありません。
日本で、子どもを権利の主体として捉える契機になったのは60年代に本格化した教科書検定や学力テストをめぐる裁判です。憲法26条の「教育を受ける権利」を、子ども・国民の学習権という視点で捉え直した。最高裁も、子どもは大人に教育を要求する権利があると認めました。80年代には、学校での体罰、行き過ぎた校則なども、子どもの権利侵害として社会問題になりました。
子どもをめぐる様々な問題を子どもの権利という視点で解決する。こうした流れを加速させたのが、89年に国連で採択された「子どもの権利条約」です。日本の批准は94年、世界で158番目と遅め。政府は国内法で子どもの権利は守られているという立場を取っていたからです。条約には、子どもの置かれた現実により対応した具体的な権利が書き込まれ、子どもの最善の利益を確保するため、その声を尊重することを国や大人に求めたのです。
憲法と条約は、相互補完的な関係。つまり、子どもの権利保障の両輪です。憲法の規定を条約の趣旨や規定にそって理解し直すことも必要になる。いじめや虐待などを学校や家族の問題としてではなく、子どもの権利という視点で考えることによって地域全体での解決につなげていく。こうした「子どもにやさしいまちづくり」が大切になってきます。子どもの権利を具体的に捉えていくことは、子どもの問題の射程を社会全体に広げることになるのです。
(聞き手・高久潤)

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あらまきしげと 55年生まれ。山梨学院大学教授。子ども法専攻。共編著に「子どもの権利アジアと日本」など。