沖縄の苦しみは真珠湾が原点 「首相は歴史顧みて」 - 東京新聞(2016年12月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201612/CK2016122602000121.html
http://archive.is/2016.12.26-003537/http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201612/CK2016122602000121.html

安倍晋三首相が二十八日(現地時間二十七日)に訪問する米ハワイの真珠湾には、沖縄の人たちにつらい過去を思い出させる場所がある。児童ら約千五百人が犠牲となった一九四四年の「対馬丸事件」を起こした米潜水艦ボーフィン号が、旧日本軍による奇襲攻撃にまつわるアリゾナ記念館のそばに係留・展示されているのだ。沖縄で事件を後世に伝える生存者たちは「今も続く沖縄の苦しみは『真珠湾』が原点。首相には、そこまで思いを至らせてほしい」と願っている。 (村上一樹)
ボーフィン号が撃沈した対馬丸に乗船していた高良(たから)政勝さん(76)=那覇市=は、事件で両親ときょうだい計九人を失った。当時は四歳。沈没時の記憶はなく、気がつくと洋上を漂流していて、三日後に漁船に救助された。首相の今回の訪問には「単に真珠湾の犠牲者の追悼だけにとどまらないでほしい」と求めた。
高良さんは現在、那覇市対馬丸記念館を運営する対馬丸記念会の理事長を務める。「もし真珠湾攻撃がなければ、沖縄の子どもたちも対馬丸疎開することはなかった。戦後七十年余り続く沖縄の米軍基地化もなかったのではないか」と訴える。
戦後の沖縄は、一九七二年に米国から日本に返還された後も、東アジアにおける米軍の拠点として多くの基地が残った。今月二十二日には北部訓練場(東村(ひがしそん)、国頭村(くにがみそん))の約四千ヘクタールが返還されたが、それでも日本国内の在日米軍専用施設・区域の70%が、今も沖縄に集中している。
名護市辺野古(へのこ)での米軍新基地建設を再開しようとしている政府に対し「沖縄に問答無用の姿勢で進めようとしている。先の大戦の教訓を生かし切れていない。真珠湾が発火点となり、そこから燃え広がってどうなったか。首相には今回の訪問で歴史を顧みて、それを今後に生かしてほしい」と話している。
事件当時十歳だった元教員の上原清さん(82)=沖縄県うるま市=は、いかだで六日間かけて奄美大島(鹿児島県)に流れ着いた。首相の訪問は「行かないよりは、一歩でも二歩でも平和に近づくのであればいい」と評価する。
一方で、事件の生存者や遺族の複雑な心境として「今でも真珠湾に行きたくない、ボーフィン号を見たくないという人もいる」と明かした。
沈没から六十年が過ぎた二〇〇四年、沖縄戦研究者らの紹介で対面したボーフィン号の元乗員から「多くの子どもたちが乗っていたことは当時知らなかった。戦争は地獄だ」と聞かされた。「日米双方とも、心の傷を負って、まだ癒えていない人もいる」と訴えた。
首相は二十六日夜、羽田空港発の政府専用機でハワイに向け出発する。

疎開児童ら1482人犠牲
対馬丸事件> 1944(昭和19)年8月22日午後10時12分ごろ、沖縄県内の児童や引率者らを乗せ那覇から長崎県に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県トカラ列島の悪石(あくせき)島沖で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け10分ほどで沈没した。2016年8月までに名前が判明している乗船者1788人のうち約8割に当たる1482人が犠牲になった。生存者は280人程度。
日本政府は97年12月、悪石島周辺海域を捜索し、同島の北西約10キロ、水深870メートルの海底で船体を発見した。引き揚げは断念し、遺品や遺影などを展示する対馬丸記念館那覇市に建設し、事件から丸60年となる04年8月に開館した。天皇、皇后両陛下は14年6月に記念館を視察、事件の生存者や遺族と懇談された。
対馬丸を撃沈したボーフィン号は真珠湾攻撃から1年後に進水した「真珠湾の復讐(ふくしゅう)者」の異名を持つ潜水艦で、太平洋戦争では対馬丸のほかに日本の商船や旧日本軍の船など計44隻を沈めたとされる。