週のはじめに考える 言葉たちの“声”を聞こう - 東京新聞(2016年10月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016103002000126.html
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危機言語・方言サミット。聞き慣れぬ響きです。その奄美大会が来月、鹿児島県与論町で開かれます。消滅しかねぬ地域の言葉をどう継承しようかと。
世界のおよそ六千の言語・方言のうち、約二千五百が消滅の危機にあると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が公表したのが七年前、二〇〇九年のことでした。
日本については、北海道のアイヌ語が消滅危機の恐れが最も高い「極めて深刻」に分類され、ほかに八丈語(東京都)、奄美語(鹿児島県)、国頭(くにがみ)、沖縄、宮古八重山与那国語(以上沖縄県)の七方言が「重大な危険」「危険」に分類されたのです。

◆方言が消えてしまう?
国立国語研究所副所長の木部暢子(のぶこ)さんは、動植物を例に「言語の絶滅危惧種です」と説明します。
むろん国内外の言語学者ら専門家や、それぞれの地域が、ユネスコが指摘するまで、手をこまぬいていたわけではありません。
存続の危機にさらされつつある“お国言葉”の継承活動や調査、研究をかねて続けてきました。
指摘の八つの言語・方言を次世代にどう継承していくか。
その対策に、文化庁は同様の危機が懸念されている東日本大震災の被災地の方言も含め、言語学など専門家の研究協議会を設置。危機言語・方言の対象地でのサミットの開催も、その一環です。
研究協議会のメンバーでもある木部さんらによれば、差別や不平等と言語には、密接な関係があるといいます。たしかに言語には力関係が見られます。
たとえば北米先住民も侵略された側面のみでなく、職を得るため英語を優先し、自分たちの言葉を捨てていったとされています。
弱い言語の話し手が、強い言語に自らの言葉を置き換えていく過程に、言語の消滅への道のりがあるといえるのかもしれません。

◆差別の動きと密接に
日本の「標準語」と、話し言葉の方言の関係も似ています。
昭和三十年代ごろまで、標準語教育を推進するための「方言札」が沖縄や東北、九州などの小中学校にもありました。方言を話した子どもに、罰として首からぶら下げた木札です。
しかし、これには「“高等”な東京の文明を受け入れるため、子どもたちのためを思って木札で方言の矯正を促した」と、別の見方をする研究者もいます。
もうひとつ、重要なのが地域共同体の衰退と言語の関連です。
ただでさえ人口減少、過疎化が進んでいる現状に、東日本大震災のような大災害がひとたび起これば、地域共同体の崩壊の危機を招く恐れは強まります。
お国言葉の消滅危機と地域共同体の消滅危機は、ある意味で表裏一体なのです。
言語、方言について示唆に富んだ学問的検証があります。
一つは言語学者の故馬瀬良雄さんが中心になってまとめた「長野県史・方言編」です。
九百ページを超す膨大な労作の最後で、長野県の方言がすべて共通語(標準語)に塗り替えられることはあるまいと結んでいます。「そのような事態が起こるとすれば、それは長野県の文化が創造と発展をやめた時である」と。
また米アラスカ大の言語学者の一人は、ユネスコの危機報告に先立ち、先住民の調査に基づいて、すでに二十年ほど前にこんな“警告”を発していました。
少数民族の言語を守る努力を国際規模でしなければ、人類の言語の九割は消滅し、多様性も失われてしまう」と。
さまざまな場でグローバル化という言葉が飛び交っています。でも、それは、欧米発の経済至上主義に傾きすぎてはいないでしょうか。多彩な言語・方言の喪失は、世界観の同質化、ひいては文化のグローバル化の否定につながりかねないのです。
言い換えれば、固有の文化を創造し続ける限り、地域の言葉はすたらないということでしょう。
地域の話し言葉、方言を復権させる活動が大切になってきます。地域社会の再生との両輪にもなるからです。

◆多様性に希望を求めて
それには、幼少期からの「会話教育」が一つのかぎを握り、現に来月十三日のサミット会場となる与論町でも各小学校などで教えていると聞きました。
だけど子どもはいったん覚えても、親世代が話せぬという壁も。危機にある方言を地域に取り戻すには課題が多いのも事実です。
ただ大震災の時、東北で「がんばっぺ」などのお国言葉の大切さや優しさが見直され、方言の地位が高まりました。若者の間では、ネットなどを駆使した方言の新たな自己表現も広まっています。希望の動きは確実にあるのです。